ロールズ・キルケゴール・マタイ伝

──《purity of heart》の系譜を探る
川本 隆史
(かわもと たかし・国際基督教大学教員

『ロールズの政治哲学──差異の神義論=正義論』の著者・田中将人と出会って、一三年になる。出講先の早稲田大学政治経済学部、二〇〇四年度「教養演習」に参加してくれた田中(当時、同学部四年生)は、私が講じていた「社会思想史」のほうも聴いていたらしい。ちなみに本書の「あとがき」には、ロールズへの関心を当人に呼び起こしたのが小著『ロールズ:正義の原理』(講談社、一九九七年)だったとある。紹介者の本懐、これに過ぎるものはあるまい。
二〇〇八年五月二〇日、早大構内の古本市会場で田中とたまたま再会し、大学院に進んでロールズ研究に取り組んでいると聞かされた私は、これ幸いとばかり、『正義論』訳稿検討会に誘った。二〇一〇年に入って校正作業が本格化してからは、田中と児島博紀の全面協力を仰いで刊行に漕ぎ着けている。
この本のもととなる博士論文「ジョン・ロールズの政治社会像の生成と発展」の審査に加わった、いわばインサイダーの私であるゆえ、公平な第三者の目でもって完成した作品を評価する資格に乏しい。とは言え、厳密なピア・レビューがここで求められているわけではなかろう。よって小稿では、後学の田中から貴重なヒントを頂戴したおかげで、初読のとき以来ずっと気にかかっていた『正義論』最終節末尾の一文に新たな光が当てられた経緯を記して、寄稿の責めをふさぐことにしたい。

まずは当該箇所を、現行の訳書『正義論〔改訂版〕』(神島裕子・福間聡との共訳、紀伊國屋書店、二〇一〇年)から少し長めに抜き書きしておこう。

この視座〔=「原初状態」のこと(引用者)〕から社会における私たちの境遇を眺めることは、それを永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)了解する業に等しい。すなわち、人間の状況をあらゆる社会的視点からのみならず、あらゆる時間的観点からも凝視することを意味する。永遠性の視座は現世を超えた場所からの眺望でもなければ、ある超越的な存在者の観点でもない。むしろ、この世界の内部にあって理性的な人びとが採用しうる特定の思考と感情の一形態なのである。そして、それを成し遂げることによって、人びとは──彼らがどの世代に属していようとも──すべての個人的視座をひとつの枠組みにまとめ上げることができ、各自の観点に発しながら、それに従って生活することがすべての人によって肯定・擁護されうる統制的な諸原理へと、連れ立って到達できる。心の清廉潔白(purity of heart)とは──もし人がそうした境地を達成しえたならば──〔心情的なものにとどまることなく〕こうした永遠性の観点からものごとをはっきりと見据え、優雅にかつ自制的に行為することと変わらなくなるだろう。〔七七三〜七七四頁(原書五一四頁)〕

『正義論』の掉尾を飾るセンテンスはこうである──“Purity of heart, if one could attain it, would be to see clearly and to act with grace and self-command from this point of view.”。小著『ロールズ』(前出)には、この文章に関する疑問と思いつく解答例を次のように書き並べておいた。
 
仮定法過去で綴られているとはいえ、『正義論』末尾の一文の主語が「心の清廉潔白」(purity of heart)であることは、いったい何を示唆しているのだろうか。アメリカ建国の屋台骨だったピューリタン的エートスへの回帰? それとも不純な心情が渦巻く現代アメリカ社会への反措定? あるいは正義の《理論》をここまで理詰めで展開してきた著者が、アメリカの読者の「心の習慣」(habits of heart)──アレクシス・ド・トクヴィル(一八〇五─一八五九)が『アメリカの民主主義』で着目した、自由な共和国を形成・維持するための鍵となっている「(モー)(レス)」のこと──を目覚めさせようとして、正義の《実践》を呼びかけているのか? いずれにせよ意味深長な結び方ではある。〔一五九〜一六〇頁〕

二〇一五年七月一一日、博士論文の仕上げにかかっていた田中が「ロールズについてひとつ発見をした」とのメールを寄こしてきた。それは私にとって驚くべき知らせだった。まさしく件の《purity of heart》の「元ネタ(ロールズが念頭においていたこと)がキルケゴールのようだ」と告げる予想外の内容だったからである。
田中は、この「発見」の手がかりをマッキンタイアの『美徳なき時代』の一節から得たのだという──「「心の純潔は一事を意志すること」とキルケゴールは言った。人生全体における目的の単一性というこの観念は、人生全体という観念が適用されなければ決して適用されえないものである」(篠崎榮訳、みすず書房、一九九三年、二四八〜二四九頁)。さらにマッキンタイアの引用原文を通じて、キルケゴールの『建徳的講話』(一八四六年執筆)の一部を英訳したタイトル(Purity of Heart Is to Will One Thing, 1938)が浮上する。よってもって、プリンストン大学哲学科の卒業論文「罪と信仰の意味についての簡潔な考察」(一九四二年)にキルケゴールの複数の英訳本を引証しているロールズが、『正義論』末尾に書き遺した《purity of heart》の「元ネタ」はどうやらキルケゴールにありそうだ……との推理が成り立つ。
何を隠そう、この私が法学部政治コースから文学部倫理学科へと転じる「内面の促し」(森有正)を与えてくれたのが、キルケゴールその人だった。そこで改めて彼の『建徳的講話』の邦訳をひも解いたところ、この「折りにふれての講話」のライトモチーフが『マタイによる福音書』第五章八節──「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」(新共同訳)──に遡れることに気づかされた。こうして田中の「発見」に始まる一連のリサーチを総合的に勘案すると、《purity of heart》の系譜に関して以下のように言い切ってみたい気持ちに私はなってくる。
すなわち、『正義論』の謎めいた結びは、「心の清さとは、神を見る〔という「一事を意志する」〕ことである」というキルケゴールおよびマタイ伝に由来する直接法現在(is)の言明を、「心の清さとは──もし人がそうした境地に到達しえたならば──こうした永遠性の観点からものごとをはっきりと見据え、優雅にかつ自制的に振る舞うことと変わらなくなるだろう」とする仮定法過去(would be)のメッセージへと(あえて典拠を示さずに!)書き改めたものにほかならない、と。
では、「神を見る」を「永遠性の観点から見る」に置き換え、さらに「振る舞う」を書き加えたロールズの真意を、どう解釈すればいいのだろうか。しかもプリンストン大学在学中にキルケゴールの世界に触れていた篤信家のロールズは、痛苦な戦争体験をくぐり抜けて「正統派」の信仰を放棄せざるを得なかったという(遺稿「私の宗教について」および『正義論』「訳者あとがき」参照)。だとすれば、「神の裁き」(divine justice)から「社会の正義」(social justice)へと路線を切り換えたはずの『正義論』のエンディングに持ち出される「心の清さ」とは、いったい何を指し示しているのだろうか。「神義論」と「正義論」とを巧みに等号でつなぎながら、「ロールズの根本的な問題関心に照準することによって、彼が考察しつづけた問い──差異に基づくリベラル・デモクラシーの存続可能性──の大きさと重要性を、追体験すること」(本書二〇〜二一頁)を果敢に目指す著者の見解を、ぜひとも訊ねてみたい。

【付記】ロールズの学部卒業論文および遺稿は、田中と児島と私による共訳を準備している(ぷねうま舎より出版予定)。また『正義論』の《purity of heart》だが、近々出る第一〇刷ではマタイ伝とのつながりを示すべく「心の清さ」に直してもらった。


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