すべての政治家たちに捧ぐ
──M・イグナティエフ著『火と灰──アマチュア政治家の成功と失敗』に寄せて
中金 聡
(なかがね さとし・国士舘大学教授

政治と恋愛は似ている。どちらに夢中になっても、その欲望は相手がいなければ満たされない。支配欲であれ名誉欲であれ、快楽の享受を他者に依存するすべての欲望は性愛(ウエヌス)の欲望のヴァリエーションであり、それに憑かれた人間は「他者の言いなりになって生きる」(ルクレティウス『事物の本性について』)はめになる。イグナティエフを政治へと唆したのは、「メン・イン・ブラック」であって内なる声ではなかった。それでも、いったん政治家を志した以上は「絶えず他人の意見に左右される状態」におかれることを覚悟せねばならない。本書はその疾風怒濤の五年間の感動的なまでに率直な記録である。

政治について多くを語ってきた知識人が自ら政治の世界に乗り出すためには、まず自分自身を納得させる必要があった。イグナティエフは祖父と父のカナダ政治との因縁、JFK世代であること、知識人政治家トルドーを包んだ熱狂の記憶などからなる物語によって「政治は私の血筋なのだ」と自らに言い聞かせる。だが二〇〇五年一二月に選挙区入りした候補者を迎えたのは、「イギー、ゴーホーム」の怒号とプラカードである。カナダ国民の記憶に残るイグナティエフは、イラク侵攻を正当化し、グアンタナモ収容所の囚人への拷問を「私たち」(アメリカ人)の名において戒めた人物であった。誤解だといっても無駄なのだ。かれの物語はかれらが聞きたい話ではなかったのだから。「他者の国」(B・ド・ジュヴネル)の新規参入者は、こうして政治の世界の手荒い通過儀礼を受けたのである。

典型的な落下傘候補として楽勝選挙区をあてがわれスタートした野党の新人議員時代は、まだ比較的平穏であった。政治家修業の真の苦しみは自由党党首選とともに訪れた。新米政治家が身をもって学んだ「政治のルール」は、ドブ板経験豊かな政治家なら誰でも知っていること、すなわち政治の世界は「強烈に身体的なもの」だということである。偉大な政治家は「ローカルなもの」に精通していなければならない。「部屋を読むこと(リーディング・ザ・ルーム)」と「さりげなさ」。多文化社会では国際政治上の争点が国内政治の最重要争点になりかねない。口から出る言葉すべてがコンテクストを無視して額面どおりに受けとられてしまう、等々。結局敗北に終わったこの挑戦は、権力で何ができるかと皮算用するまえに、まず権力の座に就くためのアートが必要なことをイグナティエフに痛感させた。だがその達人たちに心底敬服しつつも、流行のスーツを着て鏡映りを気にする自分に「空しさ」をおぼえてしまう。かれは「市長とモンテーニュとはつねにふたつで、截然と区別されていた」という『エセー』の著者の境地には到底なれない。

イグナティエフは「デモクラシーのロマン」を信じる。議会において代表者たちが説得し説得され、妥協に妥協を重ねて決定にいたる過程そのものが「私たち」を創り出す。カナダのデモクラシーは、カナダの分裂を唱える「ブロック・ケベコワ」ですら国民の代表として議会に迎え入れてきた。だからかれも、国民有権者の信任にもとづく権力に愚直なまでにこだわる。総選挙で惜敗したのちに新民主党から議会多数派形成のために連携を打診されても、敗者同士の連立に正統性はないとこれをしりぞけ、野党第一党党首の道を選ぶのだ。あとからみればそれはかれが首相になる唯一のチャンスであったのだが。

アマチュア政治家はどこで失敗したのか? たしかに経済が順境のときは「大きな政府」の理念に不利であったろうし、リベラリズムを掲げた正攻法は裏目に出た。将来のカナダ首相を迎えて熱狂する党集会は常連向けの内輪のパーティでしかなく、国民は政府と議会の対立などには無関心であった。とはいえ、カナダの現実にたいする国民の無理解や有権者の非合理な判断力をイグナティエフが責めることはない。それはいつの時代にも政治家にとって与件だからである。しかし公衆のシニシズムは煽られたものでもあった。「放蕩息子の帰郷」の物語を掲げるイグナティエフのまえに立ちはだかったのは、かれを「ただの訪問者」(just visiting)呼ばわりする保守党のネガティヴ・キャンペーンである。

これにより政治的選択は石鹸の衝動買いにもひとしいものとなり、投票は「ある政治的共同体への帰属を表明すること、つまり何を信じているかを語り、国の方向の選択という集団的行為に参加すること」ではなくなった。それだけではない。オックスフォードで学びハーバードで教えた過去三〇年間祖国を離れていたというだけで、まぎれもない一カナダ国民が「私たち」の代表者たる資格を、「当事者適格性(スタンディング)」を疑問視されることが真に憂慮すべき問題なのだ。エリートを憎む有権者のルサンチマンにはたらきかけ、野党第一党党首の適格性を単純かつ執拗に攻撃する保守党のまえに、自由党は惨敗して結党以来はじめて第三党に沈み、イグナティエフも議席を失う。「相手がリングに立つ権利」を否定する政治の横行は、政党政治がかつての礼節(シヴィリティ)を失い、説得と妥協の意味を解さない「皆殺し」の政治、戦争モデルの敵対政治となりはてたことのもっとも確かな証拠であった。そしてこれはもちろん他人事ではないのである。

本書をすべての政治家たちに贈りたい。崇高な理想とありあまる野心をかかえた将来の政治家には、実例で学ぶ政治のマナー案内として。政治の世界での立ち居振る舞いがすでに身についた現職の政治家には、「そもそも政治家を志したあのころのあなたをいつまでも忘れないでください」と添え書きするのを忘れずに 。


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