「創造的ユートピア」としての市民権と「寛容な共和主義」

D・シュナペール著『市民権とは何か』に寄せ
北川忠明 
(きたがわ ただあき・山形大学教授

ドミニク・シュナペールは、レイモン・アロンを父とする社会学者にして憲法院判事、『統合のフランス』(一九九一年)の著者で、移民社会フランスの共和主義的「統合」の理論家として一部には知られている。本書は、フランスを中心に、近代市民権の誕生、市民権の発展とそれに付随する逆説的事態を辿りながら、今日における市民権とネーションの揺らぎを認めつつその擁護を行ったもので、市民権とともに現代フランス共和主義の問題状況を知るうえで不可欠の書である。

さて、「政治的近代」は、政治的正統性が王から個人=市民とその権利へ、またネーション(国民)へと移行することに始まる。近代市民権は、エスニックな諸集団の宗教的・文化的特殊性を超越する普遍性を志向し、公と私、政治と宗教の分離を生み出すのだが、本書結論部にあるように、それは様々な特殊性を超えて法と自由・平等の理念によって共存を図る「創造的ユートピア」である。が、市民権の誕生は、ネーションの担い手である市民の権利と社会に先立つ人間の権利のどちらが優先するか、個人=市民の主権をどのように政治制度(直接民主主義か代表制か)に具体化するかといった、近代社会に内在する緊張を顕在化させる。本書のメリットの一つは、フランス革命時の論争を活写しつつ、これらの問題解決の多様性を踏まえて、フランス型市民権の考え方を浮き彫りにする点であろう。イギリス型は人間の権利と代表制を、フランス型は市民の権利と直接民主主義を選好する傾向が強く、ここからイギリス型市民とフランス型市民の相違も生まれる。イギリス型市民は、恣意的な権力に対して個人の自由を保障しようとする場合、身分・職業団体等の集団への所属や愛着を尊重した自由主義的多元主義を基礎とする。フランス型市民は、中間団体が個人の自由を妨げると考え、国家による中間集団からの個人の解放によって自由を保障しようとする一元的民主主義を基礎とする。この点は後に多文化主義の問題に関係してくる。

市民権は、「反革命」とマルクス主義の両側からの批判に耐え、自由権を基礎として社会権を包摂するようになるのだが、本書で興味深いのは、個人=市民の主権と議会制との緊張、自由と平等との緊張が、市民権の普遍性志向に伴う民主主義と個人主義の力学によって増幅され、逆説的にも市民権によって組織される社会が脆さを免れないことへの目配りである。

先ず、市民権の普遍性志向は、投票権の拡大により能動的市民と受動的市民との区別を徐々に縮小し、女性、植民地住民の市民権拡大要求を生み出した。さらに市民権は市民を育成するための学校を発展させ、政治制度においては議会制度を発展させる。しかし、市民権原理によって組織される「共和政」と、政治的権利の万人への拡張である「民主政」とは同一ではないと、シュナペールは言う。政治的権利の拡大は代表の観念そのものと衝突するようになるし、他方で今日の投票不参加の増大は議会制を危機にさらす。さらに、メディアは民主主義の道具でありながら、「世論」なるものの構築によって、それに服する政治と、市民の実感する日常的社会世界との断絶をもたらす。これらによって個人主義的民主主義の価値と代表の観念との緊張が増幅されるのである。

また、市民権の平等主義的性格は、伝統的階層社会における絆に替えて人々の間に抽象的な紐帯を生み出すが、これも社会統合と共同生活の諸形態に影響を及ぼし、市民権の揺らぎを招くという逆説を免れない。先ず民主的個人主義は「主観的権利」を発展させ、権利の過剰な増殖と規制を生み出すことにより社会生活を不透明化するし、またナショナルな統合を弱化させる。平等への情熱は経済的不平等批判からエスニックな不平等の批判へ向かい、そこから個人主義的市民権批判とエスニックな集団主義が生まれる。他方で、トクヴィルが描いたように、平等化の運動に伴う個人主義化は家族、宗教、企業内組織、習俗等に浸透し、その先には孤独とナルシシズムが待ち構えている。

だから、市民権原理に基づく社会は脆さを免れない。しかし、人間の尊厳、自由と平等を維持するためには、市民権とネーションを擁護し続けなければならないとシュナペールは考える。そして、ナショナルな市民権を脅かす多文化主義やポスト・ナショナルな市民権の要求に対して反論を行うのであるが、ここでは、多文化主義の問題と「寛容な共和主義」についてだけ言及しておこう。

シュナペールによれば、フランス共和主義者もアメリカのリベラルも、公私の分離によって多文化社会を管理しようとしてきた。そこでは個別的・宗教的・歴史的な愛着や忠誠は私的領域に、平等的市民権を中心に組織される共同生活は公的領域へ移される。これに対して「文化権」のような多文化主義の要求は、公共空間にエスニック集団の特殊的アイデンティティを持ち込むことになる。それはまた共同体主義の危険をはらみ、個人の権利と集団の権利の衝突や社会の断片化をもたらす危険がある。

先にイギリス型市民とフランス型市民との相違に触れたが、シュナペールは、多文化主義の要求は後者には馴染みにくいと考えている。とはいえ、エスニックな諸集団の宗教的・文化的差異の現実性は認めなければならない。そこでシュナペールは、差異に対して否定的な同化主義的共和主義も「文化権」の導入も退け、リベラルな「寛容」の原理を援用して、差異を超える共通空間として公的空間を維持しつつも、差異を尊重する「寛容な共和主義」による「統合」を主張するのである。

以上、筆者なりの観点から紹介したが、周知のように、二〇〇五年秋には移民社会フランスの「統合」の危機を顕在化させたパリ郊外暴動がおこった。『統合とは何か』(二〇〇七年)は、これに対応して書かれたもので、依然、本書における「寛容な共和主義」に基づく「統合」の主張を堅持していると言ってよい。

なるほど、二〇〇七年のニコラ・サルコジ政権の登場により、「統合」をめぐる文脈は変化している。サルコジ大統領のナショナル・アイデンティティ論と移民政策は、移民と外国人をフランスのアイデンティティを脅かすものとして排除しようとするシャルル・モーラス流のナショナリズムに通じるもので、これは、移民と外国人に対して「不寛容な共和主義」を意味するだろう。しかし、他方でサルコジ路線は、積極的差別是正の導入等エスニック集団の差異や多様性(diversit_)の承認といった改革課題の先取り的性格も持っており、左派の論客M・ヴィヴィオルカも「ニコラ・サルコジは多様性のチャンピオンとなった」と評し、左派が置かれている「逆説的状況」に言及せざるをえない(M. Wieviorka, Pour la prochaine gauche, 2011)。こうして、左派の側でも、普遍性を志向する共和主義的アイデンティティを維持しつつ、差異や多様性の尊重を組み込む論理の再構築が試みられている。その際意識されているのは、シュナペールの「寛容な共和主義」から「多様性の共和国」または「差異の共和国」への進化をどのように図るかなのである。

このように見てくると、「統合」をめぐる文脈の変化の中でフランス共和主義の行方を考える際にも、本書は間違いなく基軸的位置を占める一書なのである


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