現実主義のカント──理想主義(イデアリスムス)とのあいだ

山根雄一郎著『カント哲学の射程──啓蒙・平和・共生に寄せ
神山 伸弘 
(かみやま のぶひろ・跡見学園女子大学教授

カントの議論に納得するには、私のような素人にとっていくつかの難関がある。それを平凡な一言でまとめるなら、「理屈かもしれないが、現実とは思えない」といったところだ。もっとも、地動説なら直観に反しても納得できるのに、カントのコペルニクス的転回が納得できないのはどうしてだろう。それは、案外に、カントにとっての「現実」を捉えそこなっているからかもしれない。

山根雄一郎氏の『カント哲学の射程』は、カントの批判的思考を、「平和や共生といった今日の社会哲学や公共哲学に属する普遍的課題をも射程に収め得るアクチュアルな思考として浮き彫りにする」試みである。この「アクチュアルな思考」には、たんに今日の我々自身が「現実」に生かしうる思考という意味のみならず、カント自身がみずからの生きた時代の「現実」に関わりながらその哲学を展開したという意味が含まれている。

カントの哲学が彼の生きた世界との関連で捉えられるべきことは、すでにマンフレート・キューンが主張しているようだが、我々の抱くカント像は、おそらくそれとは正反対に、「無菌状態の実験室で哲学に耽溺していた」といったものではなかろうか。こうした「実験室」的な「理屈」は、我々の生きた「現実」には通用しない、という常識がどこかに働いていて、カントの議論に接近することを妨げているのかもしれない。山根氏は、これに対し、緻密な論証によって──これこそが本書の醍醐味である──、カントの「批判的思考の普遍性の源泉」がむしろ同時代的状況への応接にあることを解明する。これは、おそらく、我々のカント像を根底から覆すものであろう。

本書で展開されるこうした転覆で紹介したいところはたくさんあるが、ここでは、「啓蒙・平和・共生」と副題で銘打たれることに即して刮目すべきところを示したい。

啓蒙とは、カントによれば、我々が悟性を用いる勇気を持つことであるが、この対極にあるのが悟性を無効にする神秘主義(ミスティシズム)である。この神秘主義の哲学バージョンは、ライプニッツ=ヴォルフ流の合理論であれロック流の経験論であれ、概念なり認識能力なりを生得的とみる点にある。たしかに、こうした生得的なものは、自己言及できぬアジールであり、個々の局面では悟性を働かせているやもしれないが、その存在根拠が問われると、我々には及びもつかぬ神の世界への跳躍を駆り立て、批判的認識の放棄を迫ることになるだろう。その神秘主義があけすけに宗教運動となると、静寂主義(キエティスム)敬虔主義(ピエティスムス)となるが、これは、批判を許さぬ「良心の主観性」や「人間の内的感情の純粋性」にのみ依拠することで成り立つ。

山根氏によると、カントの「ア・プリオリ」は、こうした神秘主義を一掃する。しかし、そうはいっても、これは、生得説と同じなのではないか? こうした誤解は──今日でももちろんあるだろうが──当時にもあって、カントは、こうした誤解が批判哲学の死命を制する重大事だと、『純粋理性の一切の新しい批判は以前になされた批判によって無用とされるはずだ、との発見に関して』(一七九〇、以下『駁論』)でそれを徹底的に批判する。カントの「ア・プリオリ」は、生得説を許さずその所在や所有者を不問に付して、認識において概念と直観が──自然法学者が言うような──「根源的に獲得」される事態を意味しており、認識するその都度に機能するものにほかならない、と山根氏は指摘する。ところが、この同じ人間理性には、その限界を踏み越える神秘機能(ミスティシズム)が棲みついており、これに対して不断に批判を試みみずからを啓蒙しなければ、権威への盲従へと頽落してしまうのである。

「ア・プリオリ」をめぐって、カントが肝心要と考えた生得説批判を真正面から受けとめて、これが我々の認識におけるその都度の概念と直観の根源的な獲得作用であることを抉り出し、同時にこの作用が理性の有する負の側面でもある神秘機能への批判として捉えられるべきとするのは、現実の思考の場そのもので「ア・プリオリ」を理解しきることを可能とする点で、卓見であると思われる。

その現実を哲学するさいの深刻な問題として、平和の実現がある。現実が戦乱への傾向を示すなかで、平和追求だけを言うことは、むなしい理想主義にみえる。しかし、哲学者は、国際政治学者とは違ってたいていは理想主義に贔屓をする。カントの『永遠平和のために』(一七九五、『平和論』)は、そのバイブルとして今日でも生きている。

だが、『平和論』は、理想主義どころか彼自身が直面したドイツの内戦とポーランド解体の事態を踏まえ、権利問題の先決の立場からこの事実問題に対処しようとする、すぐれて現実主義的なものであることを、山根氏は論証する。もっとも、現実主義をいうだけなら、バーゼル条約(一七九五)の欺瞞性や秘密条項への憤りがその執筆動機だとの指摘もあるようだが、山根氏によると、そうした後追いはそもそも成り立たない。むしろ、カントは、より根底的に、秘密外交という国際政治の事実上の作法を公表性の原理(権利問題)から批判したのだ。しかも、ドイツとポーランドの現実を目の当たりにすることで平和創造するより現実的な提案こそが、平和連合(神聖ローマ帝国もこの一つの実例)を締結したり、常備軍を撤廃して軍事干渉を禁じたりといった『平和論』の諸条項だとされる。

おそらく、この解明は、カント研究において画期的なことであろうし、『平和論』の非現実という理念性に悩まされていた我々にとっても驚くべきことだろう。カントは、みずからの『平和論』が、直面する現実に対する原理的にして現実主義的な処方箋だと考えていたわけである。(それに、そもそも、カントがその認識論において「根源的獲得」という法学用語を用いたのも、『駁論』執筆当時にポーランドやフランスで革命が進行していたことが政治的背景にあったからだ、と山根氏は指摘する。)

こうした意味を持つカントの『平和論』にしても、我々にとってなお現実味を帯びない一因は、そのコスモポリタニズムにあるのではないか。今日のグローバリズムを背景にコスモポリタニズムと平和とを連結しえない我々がいる。ここで課題となるのは、現実のなかに普遍的な原理をつかみ取る作業である。

まず、山根氏は、『判断力批判』においてカントがただ一箇所だけキケロに言及しているテキストの意味を解明するなかで、饒舌や弁論術という否定的なレトリックに対比された能弁としての雄弁術の積極性を浮き彫りにしながら、その望ましさが次のような「普通の人間悟性の諸格率」に従うことだと指摘する。すなわち、「一、自分で考えること。二、誰であれ他者の立場に身を置いて考えること。三、常に自分自身と一致して考えること。」(第四〇節)である。(つとにアーレントはここに政治哲学的含意を読み取ったが、これは、『論理学』でも『人間学』でもとりあげられ、批判哲学全体にかかわる意味を持つ。)ここからすると、「弁論家が跳梁跋扈する国家civitasとは、それを構成する自由な市民civisが「自分で考える」ことをやめた(「自由からの逃走」!)成れの果て」なのである。今日の日本の「劇場政治」は、まさしくこれであろう。

さて、まさに『平和論』にかかわるが、『判断力批判』で語られる「真の愛国的な思考法」とはなにか? それは、(一)我々一人ひとりが個別事例において「愛国的」という一般概念を探求する反省的判断力の自律的な営みである。(反省的判断力を考えないと、現実を捨象するカントという虚像が生まれる。)このさい、(二)「他者の立場に身を置いて考える」のだから、「既存の実定的な共同体意識」──アーレントの理解はここに傾斜する──ではなく「コスモポリタニズム」と両立させて思考することになる。愛国を世界市民愛とともに考えるのが啓蒙された悟性であり理性なのである。

ところで、こうした判断は、カントにおいて現実的な判断か? 然り! 「対話」によってはじめて開ける「共生」は、ケーニヒスベルクの多文化共存状況──これを山根氏はチェルノヴィッツを例にして考える──という現実として考えられていたのである。

山根氏の書は、たんに文字面をなぞって現代的意義を唱える従来のカント研究とは一線を画し、浩瀚な実証に基づきカントをその生きた時代と世界の現実のなかで描き出すことによって、みずから直面した政治や思想のあり方に対して現実的にものを考えるカントの姿をよく伝えている。現実としてはあまり分からなかったカントの議論が現実としてとてもよく分かるように蒙を啓いてくれる、カント研究の水準を高く引き上げた画期的な書である


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