曖昧であること──ハイデガーの今日性

小林正嗣著『マルティン・ハイデガーの哲学と政治──民族における存在の現れによせ
小野 紀明 
(おの のりあき・京都大学教授

小林正嗣氏の『マルティン・ハイデガーの哲学と政治──民族における存在の現れ』は、政治思想史の分野におけるハイデガー研究である。彼のナチズムへの関与を考えれば、彼を政治思想史的に論じることには常にある危うさがつきまとう。しかし、現実にナチズムに加担する以前も以後も「政治」に対する関心は彼のなかで一貫していたと考えられ、それどころか「政治」は彼の哲学の中心に位置しているとさえ言えるのである。ただし、括弧付きで示すように、それは常識的な政治ではなく、「存在忘却の克服」という極めて特異な政治である。小林氏は、「存在が現れる空間」である民族に焦点を据えてこのハイデガーの「政治」を分析する。そのことによって、彼がファシズムの時代に寵児になるとともに、今日のポストモダン状況の下でも注目されている訳が、つまりまったく異なる、対立するとさえ言える二つの時代にともに大きな影響を与えている理由が明らかになるであろう。

ハイデガー的「政治」がわかりにくいのは、それがいわゆる権力による自己から他者への、あるいは集団から他の集団への働きかけではなく、そもそもそうした存在者が現れる、あるいは消滅する次元を問題にしているからである。権力とは、存在者の現れあるいは消滅をもたらすものであり、「政治」とは、存在者が現れる地平を開閉する存在論的な運動なのである。この地平の内部にあってこそ、存在者である自我は同様に存在者である他者との結びつきを拒絶する「単独者」か、それとも必然的に他者と結びついた「共存在」かという二項対立が成立するが、自我も、従って同様に自我を備えた他者も成立しない地平の外部にあっては、「単独者」と「共存在」とはいわば両義的な関係の下に置かれるのである。本書で小林氏は、従来からハイデガー解釈において対立してきた「単独者」か「共存在」かという二項対立を否定して、両者を両義的関係の下に理解する。そして状況に応じて「単独者」でもあり「共存在」でもある個別的な存在の集合体が民族なのである。それ故に、個人は民族に埋没しているか、民族はおろか、およそ共同体が成立しないアナーキズムか、という不毛な論争は否定されるのである。

『存在と時間』のなかで一箇所しか使われていない民族の語に豊かな肉付けをした第一部に続いて、第二部と第三部ではフライブルク大学総長の職を辞した直後に行われた二つの講義における民族概念が検討される。『言葉の本質への問いとしての論理学』と『ヘルダーリンの讃歌「ゲルマーニエン」と「ライン」』と題されたこれらの講義を題材にして、小林氏は現存在の被投性と企投という『存在と時間』の両義性が、政治的含蓄が明白な民族の特質でもあることを解明している。民族とは、無根拠に伝統的共同体へと投げ込まれた「共存在」であると同時に、無根拠であるが故にそこから超越して無を選択する集団なのである。以下の文章は、明示的に政治を論じてはいない『存在と時間』から直ちに導かれるハイデガー的「政治」の両義性を端的に語っている。「つまり、自らが偶然的に存在するという被投性を自覚すること(マイナスの運動)によって開かれる本来的時間性の中で、自らを企投する可能性を宿命として存在者の世界の中で選び取る(プラスの運動)のである。このように、被投性と企投として理解される双方向の運動によって導き出される、両義性を備えた「民族」こそが、ハイデガーの提起する「民族」なのである。」(二六〇頁)

両義性は、本来、一枚岩の民族による能動的行為を不可能にするはずである。では、なぜハイデガーは三〇年代前半にナチズムに関与するという愚を犯してしまったのか。この最大の謎を解くために第一部において小林氏は、この時期、例外的に「共存在」と「単独者」はあれかこれかの関係の下に置かれていると解釈する。ニーチェにならって言うならば幼子の戯れに先行して阿修羅の如き獅子の戦いが要請されるように、「共存在」と両義的な関係で理解される「理想像」としての「単独者」が可能になるためには、その前に大衆社会における世人の悪しき跳梁に対する「処方箋」としての「単独者」の闘争が必要なのである。この時期の両者の二項対立がハイデガー自身の本来の立場と矛盾すること、しかし彼はなかば確信犯として自身の立場を裏切ったこと、そしてそれ故に第二部、第三部で詳述される総長辞職後の二つの講義で両義性が再び強調されること、本書全体を通して以上の点が明らかになったことが、本書の最大の功績である。

両義性(ツヴァイドイティッヒカイト)を、つまり曖昧さを引き受ける覚悟は、物理的暴力をはじめとするあらゆる暴力の根底にある根源的暴力として、明晰な二項対立的思考が歴史的に果たしてきた役割を告発することを可能にした。政治理論におけるこうした権力論のパラダイム転換は、閉塞状況からの断固とした突破をもはや望みえず、宙吊りの状態の中で生きざるをえない現代という時代の気分の反映でもある。ハイデガーが今日の規範理論に大きな影響を与え続けている所以は、そこにある。ハイデガーをファシズムが猖獗をきわめた二〇世紀前半という時代の中に位置づけた小林氏には、この政治思想史研究者の禁欲を破って今度はハイデガー的「政治」の現代的意義の解明を期待したい


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