曖昧さから私を救う最も正統な手引き
アダム・スウィフト著/有賀誠・武藤功訳『政治哲学への招待──自由や平等のいったい何が問題なのか?』によせて
小川 仁志 
おがわ ひとし・徳山工業高等専門学校准教授

 

著者のアダム・スウィフトが本書を書くきっかけとなったのは、当時イギリスの首相であったトニー・ブレアが、アイザイア・バーリンに手紙を送った事実を知った時だという。つまり、ブレアは、バーリンの著名な消極的自由と積極的自由という概念に関心をもち、とりわけ積極的自由の概念を自らの政治信条として援用しようとしたのである。

そこで著者は、本書について、もしブレアが政治哲学を学んでいたなら知り得た事柄を、体系的に教えようとするものであると宣言する。つまり、不幸なことに一国の首相であるブレアでさえ、人生において基本的な政治哲学の議論を知る機会を逸していたのである。だからこそ原題のサブタイトルには、「学生と政治家のための」という言葉が添えられている。

ここで学生と書かれているのは、有権者となるすべての人を含みうると考えてよいであろう。著者は、あらゆる人が政治哲学を身につけることを望ましいと考えている。そのために、政治論争の争点を「明確化」し、読者が「どう考えるのかを自分の力で決定する手助け」をしようとしているのである。

では、政治哲学とは何か? 著者によると、それは人々がある見解を導く上での価値や原理を理解するための道具を提供するものであり、意見の対立の中でどれが正しいのかを決めるためのものであるということになる。その意味での政治哲学の欠如が、社会に混乱や曖昧さをもたらしているのである。

そうした認識のもと、著者は現実の政治論争の中から、具体的に「社会正義」、「自由」、「平等」、「共同体」、「民主主義」といった五つの領域を選び出し、政治哲学が曖昧なまま議論されている内容について本質を明確にしていく。以下、このそれぞれの領域ごとに、中心となっている議論を若干紹介しておきたい。

まず「社会正義」の章では、不平等が正当化されるための理屈について考察している。そもそも正当化を不要とするハイエクの考えや、ロールズの格差原理、それにノージックの自己所有権の原理を紹介し、それらが世論とは異なる発想に基づいていることを指摘する。世論は、生産における貢献によって、人は異なった収入に値すると考えるのである。にもかかわらず、その根拠となる理由は曖昧なままである。著者はその点を衝こうとする。

「自由」の章では、曖昧さに対する糾弾はより先鋭な形をとって現れる。著者はバーリンによる消極的自由対積極的自由、すなわち「〜からの自由」対「〜への自由」というよく知られた区別を批判する。それは異なる構想を一緒くたにする役に立たない主張であるという。それよりもアメリカの哲学者マッカラムの提案する、「xは、zをする(になる)ために、yから自由である」という公式を用いて分析する立場に与している。

つまり、自由を論じるに当たっては、行為主体をどのように考え、何をその行為主体に課せられた制約とみなし、何をその行為主体の目標や目的とみなしているのか考察すべきだというのである。そうして初めて自由の意味は明確になる。

これに対して、「平等」の章で問われているのは、平等という概念のもつ曖昧さそのものであるといってよい。つまり政治哲学者にいわせると、平等が問題となるのは、平等な分け前や機会の均等ではない。実はそれは、すべての人が十分にもつことであるか、最も少なくしかもっていない人が可能な限り多くもつこと、あるいは最も必要としている人が優先権を得ることにほかならない。ところが、すべては平等という同じ言葉で表現されてしまうのである。

「共同体」の章では、まずリベラリズムに対する共同体主義者からの批判に反論を試みる。リベラリズムが単なる個人主義ではないことが論証されてゆくのである。しかし、ここでも決してリベラリズムの擁護を行おうというのではなく、あくまで目論見は議論の明確化にある。他方、共同体主義に対しては、それが内在的に孕む排除というジレンマに目を向けるよう釘を刺す。かくして両者の間に繰り広げられてきた神学論争は、明確化の名のもとに終焉を迎えることになる。

「民主主義」の章では、この概念のもつパラドキシカルな本質に着目する。つまり、多数者が正しいのかどうかと問い始める時、民主主義はたちまち困難な問いを抱えるに至る。しかし著者は、民主主義は手続きであるという視点から、混乱を「正しさ」と「正当性」の違いとして明確化しようとする。正しさと正当性は、異なるがゆえに両立しうる。

さて、このように著者は、政治哲学のほぼすべての領域にわたり、一貫して巷に流布する議論の曖昧さを払拭せんと努めているのである。そこには、政治哲学者としてのある種の使命感のようなものさえ感じ取ることができる。長く緻密な議論の果てに著者が添えた短い終章には、その使命感の片鱗を読み取ることができる。

終章で著者は、政治家と政治哲学者の違いについて論じている。政治家は概念を漠然とした不明確な仕方で用いるのに対して、政治哲学者はそれを嫌悪するという。おそらくここには、そうした政治家の曖昧な言葉の海に溺れている有権者も含まれるのであろう。

しかしすかさず、この違いは両者の活動がまったく異なった性質をもつことに基づくと付言することを忘れない。すなわち政治家は差し迫った政治課題をもっているのに対して、政治哲学者は世論を変えることを目的として、長期的な視点を取ることができるのである。

だからこそ政治哲学者は、長期的視点で考察したその成果を、あらゆる人々に提供する必要があるという。それが本書で著者がやろうとしたことなのである。そしてその試みは、大いに成功しているように思われる。政治哲学がようやく黎明期を迎えたこの日本社会において、本書は曖昧な言葉の海から私たちを救う、最も正統な手引きとなり得るであろう。



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