マキァヴェッリとソデリーニ
石黒盛久著『マキアヴェッリとルネサンス国家:言説・祝祭・権力』に寄せて
根占 献一 
(ねじめ けんいち・学習院女子大学教授)

 
 都ローマの真っ只中にあるサン・シルヴェストロ広場は、市内を網の目のように走るバスのターミナルの地であるとともに、現代的な中央郵便局がこれに面し、人通りが絶えることがない。その郵便局側の左端には、この名を負う教会、名高いサン・シルヴェストロ・イン・カピテ聖堂が、やや奥まった風情で建っている。聖堂の前庭と堂内は静かで、外光眩しい広場と違い、別天地である。
 ところで、イタリアの、特にローマのどの教会に入っても、ヒューマニストや宗教改革者の批判もなんのその、至るところに聖遺物がでんと陳列され、霊験あらたかに今に生きている。サン・シルヴェストロ・イン・カピテ聖堂も例外でない。むしろ、ここには驚愕すべき、洗礼者聖ヨハネ(サン・ジョヴァンニ)の頭首があり、この地の住民の崇敬を大いに集めてきた。
 昨年二〇〇八年の五月五日、同聖堂の見学時に、ローマに在外研修の身であった私は、常に携帯した案内書にはまったく触れられていないものに出くわした。ローマとフィレンツェの太い接点をここに発見し、少々興奮したことを思い出す。堂内を進んでいくと、主祭壇に眼を奪われる。すると、それは、一五一八年、亡命の身の、フィレンツェ共和国の前正義の旗手ピエロ・ソデリーニの寄進になる、と説明されていた。この名と解説を見つけたとき、私には、たちどころにニッコロ・マキァヴェッリの名が浮かんできた。ソデリーニが当地で亡くなるのは、その四年後、二二年のことである。
 一四五二年五月一八日生まれのソデリーニが壮年の頃、フィレンツェ共和国の歴史はめまぐるしく変貌する。九四年、フランス国王シャルル八世のイタリア半島南進を受けて、共和国からメディチ家が追放された。この後、サヴォナローラの神権政治が四年間続いたものの、九八年五月二三日、このドメニコ会修道士はシニョリーア広場で火刑により抹殺された。この間、政局の中心にいた一人が、このソデリーニであった。そして、ソデリーニの信頼厚い部下となるマキァヴェッリが生まれたのは、これより一世代前の六九年五月三日のことであった。
 彼ら二人が生まれた年月の間は、メディチ家が着々と勢力を伸ばしつつあった。六九年一二月初めに病弱なピエロ・デ・メディチが死去した時、その長子ロレンツォと次男ジュリアーノの若いメディチ兄弟が、共和国の中枢に居るよう配慮した者があった。時の実力者トンマーゾ・ソデリーニである。トンマーゾは先のピエロと、ピエロの弟でローマ教会の枢機卿となるフランチェスコの父に当たる。親の代にはメディチ家との信頼関係が損なわれていなかったが、子の代には対立関係に変わっていく。このフランチェスコは、メディチ出身のローマ教皇レオ一〇世に対する陰謀者の一人に数えられている(一五一七年)。
 さて、マキァヴェッリは、時代の転換期の九八年六月一〇日、共和国「第二書記局書記官長」に選ばれ、七月一四日には書記官長兼「自由と平和の一〇人委員会」秘書官となった。この一〇人会は、外交と戦時に関わる重要部局であった。翌年、マキァヴェッリは政局の第一線に立つ。この時の外交交渉で深く関わった相手は、フォルリ女伯カテリーナ・スフォルツァである。カテリーナの夫ジローラモ・リアリオが殺害されたのは八八年のことで、この後、彼女の協力者となっていたのは、側近ヤコポ・フェオであった。
 だが、愛人ヤコポもまた、カテリーナの目の前で殺害された。彼女の治国は、ローマ教皇アレクサンデル六世の息チェーザレ・ボルジァの侵攻により危うくなっていた。フィレンツェ政府は、要衝の地を統治する彼女を支援する外交方針を取っていたが、イモラについで、あえなくフォルリも陥落した。残念ながら、カテリーナの運命をさらに述べる紙幅はない。ここでは、これより先、九六年か九七年に、彼女は、ロレンツォ・デ・メディチの又従兄弟ジョヴァンニ・デ・メディチと密かに再婚していた、とだけ記しておこう。彼らの間にできた一子がジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレである。ここに、メディチ大公家の先祖が開始されることになる。
 カテリーナ・スフォルツァとの交渉から始まって、一五〇〇年にはフランス国王ルイ一二世との、一五〇二年から〇三年にかけてはチェーザレ・ボルジァとの外交上の難局には、常にマキァヴェッリが立ち会った。彼の良き理解者ピエロ・ソデリーニは、一五〇二年九月二二日に終身の正義の旗手に指名されていた。これまでは同職は二ヶ月の短期間であったから、たいへんな変化がこのポストにもたらされたのである。ヴェネツィア共和国の総督(ドージェ)に倣ったものであった。ピエロの弟フランチェスコは、兄が終身職に就いた後、フランス大使に選出され、さらには、先述のようにローマ教会の枢機卿位に進んだ。
 マキァヴェッリは〇三年にはローマに派遣され、新教皇ユリウス二世の選出を見守っている。この翌年、共和国の象徴としてのミケランジェロの巨像ダヴィデが完成し、ソデリーニ政権下のシニョリーア広場に配置された。同政権のもとで共和国役人マキァヴェッリは、一五一二年まで、〇六年にはユリウス二世のもとにイモラへ、〇八年には神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン一世のもとにボーツェン(ボルツァーノ)へ、この間前後にそれぞれフランスへと、実に多忙な外交官生活を送り、その報告書を書き上げている。フィレンツェ政府はフランス王国に外交上の厚い信義を置いていた。
 イタリア半島を巡って、独仏が激しい主導権争いを展開中であり、教皇ユリウスもその名に恥じず、ユリウス・カエサルのように戦闘を厭わぬ一方、外交戦術に長け、メディチ家のフィレンツェ復帰を図り始める。そして、ついに、一五一二年夏、フィレンツェ近郊プラートの劫略を機に、ソデリーニは政権の座を追われて、最終的にはローマへ亡命した。サン・シルヴェストロ・イン・カピテ聖堂に縁があるのもこのためであり、高位聖職者の弟もこの地にいたのである。
 ソデリーニ政権崩壊後、やがてマキァヴェッリは公職を追われただけではない。一五一三年始めに起こった、反メディチのボスコリ陰謀事件の関与者として彼の名があり、収監された。これを解かれた後、フィレンツェ近郊、サン・カッシァーノのサンタンドレア・イン・ペルクッシーナの地所へ隠遁した。この時期における在ローマのフランチェスコ・ヴェットーリとの交信は名高い。時にローマには、メディチ家初の教皇、レオ一〇世が誕生していた。これまで、私は六、七回、マキァヴェッリの所謂アルベルガッチョを訪れている。友の招きで夕食を取るためである。ローマの聖堂でピエロ・ソデリーニの名に接した時に思い起こしたのは、フィレンツェであり、この彼の住処であった。彼の代表作、『君主論』と『ディスコルシ(ティトゥス・リウィウスの最初の一〇書に関わる論議)』は、この鄙びた村の住まいで執筆され始め、前者は一気に完成された。
 しかし、このまま田舎の在所で燻らず、一五一四年頃からマキァヴェッリの公的活動が再開された。のみならず、知的生活も新たな展開をし始めた。それはオルティ・オリチェッラーリへの参加である。先の『ディスコルシ』はここを舞台に読み上げられ、『戦術論』もここで練られている。この園の集いの関係者が起した陰謀事件は二二年のことであるが、彼の旺盛な著述活動は衰えなかったし、奉仕精神も活発であった。二五年早々にはローマで、二人目のメディチ家出身の教皇クレメンス七世に『フィレンツェ史』を献呈した。そしてこの教皇により、ファエンツァにいるグイッチャルディーニのもとへ派遣された。フィレンツェに戻って後、八月にはヴェネツィアに使いしている。翌年も同様に活動的であった。
 一五二七年はこの世でのマキァヴェッリ最後の年であるものの、イタリア史の驚天動地の惨劇、五月六日のローマ劫略を知らずにはすまなかった。再びメディチ家がフィレンツェを追われ、共和国体制が戻ったものの、あのソデリーニ時代の官職、一〇人会秘書官復帰はならず、失意のまま、六月二二日死去した。亡くなる二ヶ月前には仕事でブリジゲッラにいたから、彼の職務ぶりは、一五世紀の市民的ヒューマニスト、マッテオ・パルミエーリの行動的生活を連想させるに充分であろう。
 石黒盛久氏の『マキアヴェッリとルネサンス国家??言説・祝祭・権力』は博士論文が活字化された瑞々しい著作であり、マキァヴェッリの政治思想と時代の特質を見極め、これを解釈しようとする果敢な試みである。ただ、マキァヴェッリの生涯を順に追う中で、その問題を解明しようとしているわけではない。氏は研究者として関心を持ったテーマを非常に精細に、個別的に検討しようしている姿勢が顕著である。それは『君主論』の徹底的な読解に窺われる。私がここに綴ったことは、各章の主題を理解するうえで役立って欲しいという思いからであった。
 氏は、ロレンツォ・デ・メディチ晩年の祝祭、一四九一年の聖ヨハネ(サン・ジョヴァンニ)祭演出から、ジョヴァンニ・ダッレ・バンデ・ネーレの息コジモ一世の情報戦略、ヴェッキョ宮殿の室内装飾まで、つまり、まだマキァヴェッリが公生活に登場する前から叙述を始め、彼が亡くなった後の時代までを扱う。さらに、ソデリーニやメディチ一族の役割を詳しく紹介し、邦語文献の乏しい分野に貴重な一書を加えた。これを先の表題のように謳い、副題の「言説・祝祭・権力」には作者の意図が如実に示されている。
 作者の主たる関心事は、「政治思想と表象芸術」である。本書には収録されていないものの、ロレンツォ・デ・メディチの別荘の一つを扱った研究発表や、ダヴィデ像の時代表現の相違を扱った論考などがあり、ルネサンスを研究するものなら誰でも、美術と建築を取り扱いたくなる誘惑に駆られるが、氏もこの例に漏れないことを示している。氏はしかし、これらをあくまでも政治思想の専門家として検討に付している。この新刊でも同様で、常に近代ヨーロッパの政治的展開を忘れることがない。その中心国になるフランスの近代史に関する学識と、現代イタリアの政治に対する知的関心が作者の根底にあり、そこから非常に長大で包括的な歴史意識が浮上する。
 取り扱われた時代は、上述のように移行する転換期にあたり、このルネサンスの転換期ほど興味深い時代もないであろう。作者はここに着目し、その期を端的に表しているマキァヴェッリの文言に史眼を凝らしたのである。否、文字資料に政治言説の意義を見出そうとするだけではない。視覚芸術にもその意図を探り、全体として権力構造の変化・変質をその独特の言語表現で把握しようとしたのである。祝祭もまた、この観点から考察される。刊行を機に、作者の更なる学究の深化を期待して止まない。


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