幸福な政治の曖昧な帰結
M・ウォルツァー著『正しい戦争と不正な戦争』によせて
早川 誠 
(はやかわ まこと・立正大学法学部教授)

 
 研究者にとっては考えることが仕事だが、考えずにすませられるのであればその方がありがたい、という事柄もある。ウォルツァーによれば戦争とは殺人以外の何物でもない。そして、戦争がいかなる場合に正当化されるかを検討する正戦論の目的も、人間が地獄にあってどれほど人間的であり得るかを理解することにあるというのだから、これほど元気の出ないテーマはないだろう。確認しておくが、正戦論は戦争それ自体が正しいと主張しているわけではない。侵略に対する自衛など、否応なく戦争に巻き込まれてしまうケースがあるということを前提に、その戦争を可能な限り抑制しようとする議論である。したがって、「正しい戦争」という字面から感じられるほどの極論ではない。とはいえ、殺人と地獄から議論が始まるのでは、気も滅入るというものである。
 その意味では、正戦を論じることなく過ごした第二次世界大戦後の日本政治は幸福であった。確かに、失政によって命を落とした人々の数は少なくなかろうし、経済復興後の低調な国際貢献に対する批判もあるだろう。また、核抑止を論じる本書第一七章の議論を待つまでもなく、核戦争の恐怖が縁遠かったというわけでもない。しかし少なくとも、自分の属する社会全体が戦争により消滅するという直接の恐怖を体感することは稀だったのではないだろうか。また多くの人々にとって、自分が兵士となって戦場に赴き目前の敵兵を殺すかどうかの選択を迫られる、という場面を想像する必要もなかった。幸福な社会のイメージは人それぞれであろうが、自分が殺人者となることを想像して生きる社会と、そのような想像をせずに生きることができる社会とを比較するならば、後者の方を幸福と呼ぶことに異存のある人は多くないと思われる。
 豊富な実例を参照しつつ正戦論を用いて米国のヴェトナム介入を批判した『正しい戦争と不正な戦争』が、一九七七年の原著出版以後今日まで翻訳されなかった理由の一つに、こうした戦後日本社会の状況を挙げても、さほど的外れとは言えまい。しかし本書を読み進めていくにつれ、私には妙な不安感ないしは焦燥感とでもいうような感情が湧き上がってくる。例えば、原爆投下の是非が検討される部分でウォルツァーは次のように語る。「そして結局、原爆はドイツに対して(あるいはアインシュタインのような人物が考えていたようにヒトラーによる原爆使用を抑止するために)使われたのではなくて、ナチスのように平和や自由に対する脅威とは決してなっていなかった日本人に向けられたのである。」さらにもう一節引いておこう。「日本のケースはドイツとは十分に異なり、無条件降伏など要求すべきではなかったのだ。日本の統治者たちはより一般的な種類の軍事的拡張を行ったのであって、道徳的に必要だったのは、彼らが敗北しなければならないということであって、彼らが征服され完全に打倒されるべきであるということではなかった。彼らの戦争遂行能力に対するある程度の制限は正当化されるかもしれないが、彼らの国内統治体制は日本国民のみに限られた関心事である。」これらの言葉は、日本がドイツとは質的に異なっており、原爆を用いなくとも戦争終結が可能であった、あるいは原爆使用前に交渉を試みる余地があった、という米国批判の文脈の中で発せられている。この日本評価に、どのように向き合うべきであろうか。
 私の中には紛れもなく安堵の気持ちがある。過去のこととはいえ、自らの国が「世界に具体化した悪」ではないと認められたのだから。だが、ウォルツァーの述べるように日本の統治体制が私たち自身の問題であるとして、その私たちの戦後の統治体制は、ナチス・ドイツよりもまし、という出発点からどれほど先に進むことができたのだろうか。
 本書の第五部は「責任の問題」と題され、戦争において政治指導者や兵士、市民がそれぞれどのような責任を負うのか、という問題が扱われている。だが、とりわけて吟味すべきは、民主政においては政治共同体の構成員全体に責任が分配されている、という指摘である。戦争においても、例外は許されない。ウォルツァーは、侵略戦争の開始と遂行に関して、戦闘に参加する兵士に兵士としての責任はないと言う。しかしその同じ兵士が、市民という立場では、戦うという決定に参与した責任を免れ得ないとも述べる。つまり、民主政を採用する限り、戦闘に従事する兵士という例外的な立場にあっても、市民は責任を取らなければならない。民主政は、いわば責任の牢獄なのだ。
 戦争は、人々を政治共同体の運命に巻き込んでいく集団的プロジェクトである。だから、市民は否でも自らの責任について考えざるを得ない。ウォルツァーの正戦論は、そのような思考の場から語りかけてくる。他方、戦後日本の幸福な日常において、私たちはおそらく民主政を営む市民としての責任を忘却することさえできた。それは決して非難されるべきことではなく、また非難されてはならない。人々の幸福は政治の主たる目標の一つなのだから。しかし、責任を分配する方法としての民主政を何よりも鮮明に意識させるのが戦争であるとしたら、非戦を実現させる中で責任を忘却する幸福を享受し得ている日本の民主政の将来を、私たちはどのように守っていくことができるのだろうか。
 本書を、対テロ戦争への日本の対応といった時事的課題に結びつけて読むことも、もちろん可能である。あるいは、版ごとの序文の違いから、ウォルツァーの思考の変遷を辿ることもできるだろう。だが私にとっての『正しい戦争と不正な戦争』は、何よりも日本の民主政そのものを問うているように見えて仕方がないのである



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