オイディプース・テュランノスとポリーテイアー
拙著『プラトン政治哲学批判序説:人間と政治』によせて
永井 健晴 
(ながい たけはる・大東文化大学法学部教授)

 
理論を欠く経験は盲目であり、経験を欠く理論は空虚である。周知のように、カントは「第一批判」の序説でこのように述べている。それを主知主義あるいは観念論と呼ぶことが妥当か否かはともかく、よかれあしかれ、カントは理論と経験との関係に関して、理性に能動性を、感性及び欲求に受動性を帰している。プラトンは対話篇『国家』において、魂と国家の機能秩序を類比し、いずれにおいても、気概を介して欲望を支配する機能を理性に帰している。古典古代と西欧近代の両決算期に現れた両哲学は、理性支配(統治)において人間を捉えるという点において照応している。

人間の魂psych垂ノおける欲望の理性による支配は正当化を必要としない。自然本性からして、あるいは定義からして、理性は支配するものh身emonikonだからである。生物一般においては、事実上de facto、理性と感性及び欲求との機能分化がない。そこでは快苦と適応の成否との事実だけがあり、善悪は無記である。これに対して、人間においてはそれらの機能分化があり、理性と欲望が支配・被支配関係として成立するかぎりで、善悪、正邪が問題になりうる。この支配秩序が転倒すれば、欲望は無際限となり、理性はこの盲目的かつ無際限の欲望pleonexi奄フための手段となる。

人間は生まれながらにして自由であるわけではない。しかし、人間はその魂において理性支配を実現しうるかぎりで自由になりうる。逆にいえば、そのようにして自由になりうるものこそが人間である。人間による自然の盲目的な理性支配が、自然による盲目的な人間支配に逆転すること、まさにこの「啓蒙の弁証法」に対して自己批判を遂行しうるのもまた理性以外ではない。

プラトンは、完璧な理性の支配という意味での自由と盲目的な欲望の支配という意味での隷属を、哲人王philosop冢 basileusと僭主(暴君)tyrannosというGestaltとして示している。もちろん、人間が完璧な善意の神でも悪意の神でもありえない以上、両者はある意味では現実的には全く存在しえないGestaltである。しかし、両者は、所与の内外の自然環境において社会的・歴史的に生活活動を営んでいる人間のいわば二つの極限的な理念型としての意味を持ちうるであろう。

魂における理性支配が正当化を必要としないとしても、プラトンが呈示しているいわゆる「最善国家」における哲人支配は正当化を必要とするであろう。国家において支配(統治)するものとされるものとは、端的に理性と欲望という機能そのものではなく、いずれも両方の機能を備えた、したがって堕落し(魂の構成秩序を転倒させ)かねない、人間たちだからである。「王が哲学したり、あるいは哲学者が王になったりすることは期待すべくもないことであるが、しかしまた望むべきことでもない。暴力の所有は理性の自由な判断を不可避的に堕落させるからである。」(カント)

だから、もちろん、次善の実現のためには、さしあたり恣意的判断と堕落を免れない人の支配ではなく、法(盲目のユスティティアとしての形式法と手続き)の支配が受け入れられるべきである。しかし、法の支配を前提としても、正義としての法を解釈し、制定法としての法を運用するのは、つまり政治的に判断するのは、法ではなく人である。人は何らかの法規範を備えた所与の家と国家社会の中で一定の判断力を有する人として形成陶冶される。こうして自己陶冶を遂げた人だけが所与の法を解釈し再定立しうる。
「善のイデア」は、諸イデアを抽象したイデアのイデアではない。それは個物をしてそれをそれたらしめるそのイデアへと向かわしめる何かである。同じく、「善のイデア」を直観する哲人王とかれが支配する最善国家は、そのまま実現されうるモデルでも、実現されえないユートピアでもなく、人間の魂と国家をしてそれたらしめるところのものへと向かわしめる何かである。それは、構成原理ではなく、いわば統制原理das regulative Prinzipである。

哲人王の支配する最善国家パラデイグマにおいては幾何学的平等と配分的正義の実現が可能になるが、これに関して注目すべきは、統治者と被治者との互換性と相互規定性である。統治者、守護者、生産者の三層は世襲カーストを成してはいないから、徳、能力、教育(陶冶)しだいで階層間の移動が可能である。仕事あるいは役割の互換性は、「自分のことをする」to ta hautou pratteinという意味での正義(専門化原理)、「善く生きる」eu z刃(徳の実現)を、可能にするための制度的前提である。
ここでは生産者層において、固有の徳ないし技能のメリトクラシーに応じた分業と交換のシステムが展開されている。と同時にここではまた、国家を構成する三階層とそれぞれが担う活動(生産者、守護者、哲学者それぞれにおける生産労働、対外防衛と対内治安維持、政治的判断)間において、同じメリトクラシーに応じた分業と交換のシステムが展開される。そして、分業と交換のいわば縦横の分業と交換システム間においては、私的所有に関して、無産者による有産者の支配が貫徹される。

縦横の分業と交換のシステムに関して、同じカテゴリーを用いることに、アーレント、ハーバーマスといった人たちは大いに懸念を示すであろう。もちろん、行為と製作、理性と悟性といったカテゴリーの弁別は批判的になしうるし、なすべきでもあろう。しかしながら、人間のいかなる社会的活動も何らかの形で両アスペクトを含意しており、いずれも広義の社会的労働とその成果の分割・配分システムの中で価値・意味づけられるべきものなのである。峻別された行為と製作、理性と悟性、悟性と感性−これらはいずれも盲目かつ空虚である。

人間個人においても、かれらが構成する国家においても完璧な理性支配はありえない。しかし、いずれにおいても理性支配への志向なしには、人間は堕落するだけであろう。個人における理性支配と国家におけるそれとは完全に相似であるわけではない。国家を構成する被治者たちの魂の構成秩序のあり方は、統治者とその統治のあり方によって決定的に影響される。しかし、ひるがえって、被治者たちの魂のあり方は、政治的判断を行なう統治者が誰であるかを制約する。オイディプースを王basileusにするか暴君tyrannosにするかを決めるのは、かれと同様に、自分の魂のうちに理性、気概、欲望を備え、支配を事実上正統化するかれらに他ならないからである。



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