恋愛と戦争では何でもありか?:マイケル・ウォルツァーのモラル・リアリティ感覚
M・ウォルツァー著『戦争を論ずる:正戦のモラル・リアリティ』によせて
萩原 能久 
(はぎわら よしひさ・慶應義塾大学法学部教授)

 
「正戦論bellum justumという「評判の悪い」理論がある。ウォルツァーの言い方を借りれば、天国に行き損ない、さりとて地獄に堕ちることもなく、現世で既存の権力に仕え続けるのが正戦論であるとも言える。しかし「すべての暴力のなかに身を潜めている悪魔の力」(ウェーバー)と必然的に結託しなくてはならないのが政治の本質であるとするならば、すべての政治理論のなかで、これ以上政治の本領を体現した理論はあるまい。誰の耳にも心地よいきれいごとを語れば事足れりではすまないのである。古典的にはアウグスティヌスによって定式化され、トマス・アクィナスを経て、「国際法の父」グロティウスにまで継承されてきた正戦論であるが、この正戦論を現代においてなおも蘇生させようとする、いささかアナクロニスティックな香りのする難題に取り組んでいるのがウォルツァーである。

彼の正戦論を理解する鍵になるのが、『正しい戦争と不正な戦争』(一九七七年)以来、繰り返し彼が用いてきた「モラル・リアリティ」という用語であろう。政治は「境界線の暴力」(杉田敦)から逃げることが許されない。どこかに彼らとわれわれを分かつ線を引かざるをえないという暴力、そしてその境界線の向こう側にいる人々に対して、積極的に戦争という名の殺人をはたらかなくても、少なくとも彼らが生きようが死のうが、どのような過酷な運命に翻弄されようが知ったことではないという冷淡な態度をとるという暴力が常にそこに存在している。人はしばしば、この自己の暴力に無頓着で、その存在すら自覚しないまま、それから目をそらして生きる道を選ぶ。ウォルツァーはその暴力に目を凝らし、その重みと責任に耐えようとする。その感覚が彼のいう「モラル・リアリティ」なのだろう。言い換えれば、ウォルツァーは「われわれの道徳規準」が適用されるべき領域、つまり境界線で切り分けられた内部領域を可能なかぎり押し広げようと試みているのである。古来からある諺「恋愛と戦争では何でもあり」、つまり恋愛ではどんな策略や嘘も許され、戦争ではいかなる暴力も開放されるとする考え方にウォルツァーは異を唱える。もし本当にわれわれが「何でもあり」と感じているのなら、なぜわれわれは恋愛と戦争についてかくもしばしば道徳的に語るし、語ってきたのか。道徳的原則とは人間的規準であって、不動の真理のごときものではない。人間的時間から隔離された「永遠の相のもとにsub specie aeternitatis」に構想されるものではない。もっとも、人は恋愛については笑顔で、嬉々として語ることができても、戦争について語るときには陰鬱にならざるをえない。恋の女神ヴィーナスを前にして人々は口やかましく、軍神マルスを前にして臆病になるのだ。だからこそウォルツァーは数々の歴史的事例に立ち会い、その道徳規準の限界を繰り返し語り継いでいこうとする。正戦論を批判のために編み出された、権力への抵抗理論として転用するために。

彼が思想的に対決しようとするのは軍事的リアリズムと絶対平和主義である。戦争においても守られるべき道徳的ルールが存在するし、存在しなければならないという信念がウォルツァーを支えている。その基準はしかも自国の側の大義が有する正義が大きければ大きいほど、この大義のためにそれだけ多くの規則を破ることが許されるといった自由自在に伸び縮みするもの−ウォルツァーはそれを「スライディング・スケール」と呼ぶ−であってはならない。これがひとたび容認されてしまえば「正戦」に従事している軍人は戦争に勝つためには何をしてもいいということになってしまい、事実上戦争のルールは無効化されてしまうからである。その時戦争は地獄となる。

このような功利主義的なスライディング・スケールの議論に唯一対抗しうる理論的立場は道徳的絶対主義であろう。事実、ウォルツァーはギリギリまで、この立場を貫こうとする。「たとえ天が落ちてこようと正義を行え」というカント的な道徳絶対主義に対して、彼が提案するのは「天が(本当に)落ちてこない限り、正義を行うべし」である。そしてその一線を越えた「天が本当に落ちてきた」状態こそ、「最高度緊急事態」に他ならない。

国家にとってこの最高度緊急事態がいつ始まるのか、ウォルツァーはその拡大解釈を避けようと定式化に慎重である。危険は深刻なものであり、差し迫ったものでなければならない。どちらか片方だけでは足りないと彼は言う。その際、彼が念頭に置いているのはナチズムの脅威であるが、それにしても最高度緊急事態において、戦争のルールを無視して非戦闘員への無差別爆撃までもが正当化される理由は何であろうか。(ちなみにウォルツァーはヒロシマへの原爆投下を正当とは認めていない。)彼はそれを次のように不器用に説明する。「殺人が時には起こる世界に生きることは可能だが、ある国民全体が奴隷化され虐殺されるような世界にいるのは文字通り耐えられないことなのだ。政治共同体−その構成員たちは先祖から子どもへと引き継がれるべく繰り広げられてきた生活様式を共有している−の存続と自由は、国際社会における最高の価値だからである」。ここにもウォルツァーのコミュニタリアン的側面がかいま見えよう。

繰り返すが、ウォルツァーの構想は、従来の政治理論が「例外状態」として一般的ルールの適用を避けてきた戦争という領域をもわれわれの道徳世界の延長とみなしてルールの適用を求めていこうとする試みである。しかしそこでも究極的にはルールの適用が「乗り越えられる」例外状態が想定されている点は見逃しがたい。境界線は歴然と存在するのだ。しかしアガンベンが繰り返し語っているように、戦争状態とは、例外状態が常態化する事態であるとすれば、われわれはいつしか「戦争の魔力」に飲み込まれてしまう存在であり続けるだろう。それが政治である。われわれ人間には千年王国は似つかわしくない。『戦争を論ずる−正戦のモラル・リアリティ』の末尾で、ウォルツァーはこう語る。「きわめて現実的であり、常に理性的であるとは言えない私たちにとって、政治とはいわば『天性の』活動である」



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