非リベラルな考察によるリベラリズムの刷新
マイケル・ウォルツァー著『政治と情念:より平等なリベラリズムへ』を読んで
小田川 大典 
(おだがわ だいすけ・岡山大学大学院社会文化科学研究科教授)

 歴史的な文脈の制約を受けることのない普遍的な正義と呼べるようなものが存在するとすれば、それは各人が自らの置かれた歴史的な文脈を徹底的に掘り下げることによってしか見出すことのできないなにものかであろう。すなわち、われわれは、専ら自らが属する特定の境界内のマキシマルな「濃厚な道徳」を深めることによってのみ、境界を超えるミニマルな「広く薄い道徳」に到達しうる(『道徳の厚みと広がり』)。−−徹底した歴史的文脈主義の中から哲学的普遍主義の可能性を導き出すこと、コミュニタリアニズムの認識を深めることによって、コミュニタリアニズムを超え、リベラリズムを一歩先に進めること。マイケル・ウォルツァーはこうした逆説的な議論を得意としており、本書『政治と情念』においてもまた、従来のリベラリズムが排除してきた幾つかの主題−−非自発的なアソシエーション、集団的な無力、文化的な周辺性が惹き起こす諸問題、市民社会に内在するヒエラルキー、社会的抗争の政治、情念にあふれた取り組みがもつ力−−についての考察を通じてリベラリズムのバージョン・アップを図るという実に逆説的な試みがなされている。
まず第一章から第四章では、リベラルが議論の対象から外しがちな、非自発的なアソシエーションの問題が論じられている。ひとは自分で生まれ落ちる場所を選ぶことができないので、その生は、つねに何らかの非自発的なアソシエーションの中ではじまり、そこにおいて、家族、文化、国家、道徳的関係という四つの束縛を受ける。一般にリベラルは、そうした束縛が諸個人の自発的な選択を妨げていると考え、非自発的なアソシエーションからの解放による自由を追求しがちである(「解放モデル」)。だが、ウォルツァーによれば、非自発的なアソシエーションでの経験は、行為者を呪縛する危険性のみならず、他方では社会批判のための足場を提供する可能性をも秘めている。それどころか、非自発的なアソシエーションの物質的な基盤を強化すること−−ウォルツァーはそれを「肉とポテトのリベラリズム」と呼ぶ−−によって、そこに属する行為主体の自発的な選択の可能性を高めることも十分に可能である(「力の強化モデル」)。だが、非自発的なアソシエーションの力を弱めるにせよ、強めるにせよ、われわれは、非自発的なアソシエーションへの帰属という「根源的な所与」を受け入れた上で、当座の必要に応じて、非自発的なアソシエーションと自発的なアソシエーションとを擦り合わせていくしかないのであり、また、その中で得られる非自発性と自発性の暫定的な均衡としての「制限された自発性」こそが「われわれが知りうる唯一の自由のかたち」であるということを認識しなければならないのである。
続く第五、六章では、同じく非リベラルな主題である情念の問題が論じられている。「最善の者たちが確信を失うとき、最悪の者たちは燃えたぎる情念の虜となる」というイエイツの詩の一節が示すように、情念とは一般にネガティヴな存在と見なされており、実際、ヨーロッパ精神史を振り返るならば、情念論の主流は、理性による情念の抑制を唱える禁欲主義であったし、あるいは比較的無害な情念を「利益」として飼い慣らすことで、有害な情念(支配欲や好戦性)を抑制するという「情念の政治経済学」がせいぜいであった(ハーシュマン『情念の政治経済学』)。一八世紀以降、リベラリズムの主流は後者であったが、二〇世紀末になると、利益集団多元主義に対する批判を起点とする「討議的デモクラシー」論において、利益を含む全ての情念に対して否定的な禁欲主義が復活する。リベラルな経済学者は「利益」の調整を重視し、リベラルな法哲学者は??おそらくは裁判所で行なわれていることを念頭に−−理性的な「討議」による合意を重視する。だが、ウォルツァーによれば、両者はともに政治における情念の重要性を理解していない。そもそも政治において、自由と平等は、つねに様々なアソシエーションにおいて確立されてきた既存の不自由や不平等−−そのほとんどは非経済的なものである??を部分的に解体することによって相対的に獲得されてきたのであり、そうした既存の不自由や不平等の解体のための闘争においては、専ら情念を排除した理想的発話状況においてのみ可能となるハーバーマス的な討議よりも、既存のヒエラルキーに対するネガティブな情念を起点として、民衆を組織化し、大衆を動員し、集団の連帯を図る戦略の方がはるかに有効なのである。
自由と平等というリベラルな理想を追求するには、最初から自由で平等な行為主体の存在を前提とした「討議」なる営為を云々するのではなく、むしろリベラルな理論家たちが嫌悪の対象としていた非自発的なアソシエーションや情念の中に、既存の不自由や不平等を解体しうるポテンシャルを探ることこそが肝心である。−−このように、非リベラルな主題の中に、リベラリズムを刷新する手がかりを探るというウォルツァーの議論は、いつもながらスリリングであり、われわれはそこから、リベラリズムが抱えている問題とその新たな可能性について鋭い洞察と豊かな知見を得ることができる。だが、にもかかわらず次のような疑問を抱くのはおそらく筆者だけではあるまい。すなわち、かくも非リベラルな主題を包摂しうるリベラリズムとは一体何なのかという、実に素朴な問いである。ウォルツァーの議論につきあうことで、われわれはリベラリズムの思想的豊饒さに触れることができる一方で、ともすればその境界を見失う。リベラリズムと、リベラリズムならざるものの境界線をウォルツァーはどこに見出しているのだろうか。あるいは、その手がかりは、「付論」として本書に収められている古典的論文「コミュニタリアンのリベラリズム批判」の中で与えられているのかもしれないのだが。



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