紹介・『人権の政治学』
イグナティエフによる問題提起の書
千葉 眞 
(ちば しん 国際基督教大学教授/政治思想)

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二一世紀初頭の今日、世界各地において子供や若い女性を対象とした「人身売買」(ヒューマン・トラフィキング)、地方的および国際テロ組織や破綻国家による少数派と一般人への弾圧や暴力行為など、各種の人権侵害は跡を絶たないだけでなく、一時代前よりも深刻さの度合いを加えている。第二次世界大戦直後に戦争の惨禍にうちひしがれた状況下で、世界各地で自ずと沸き起こった「人権革命の波」は、二一世紀初頭の世界において堰き止められ、一種の停滞を余儀なくされたのであろうか。
今日ほど地球規模の人権保護体制あるいは国際人権レジームの確立が求められる時代はかつてなかったといえるであろう。しかしながら、そうした国際人権レジームがいかに未整備であるのかを痛切に思い知らされるというのが、現状である。さらに法学と政治学という双方の学問領域の境界線上にある人権の主題については、不思議なことに主題の重要さにもかかわらず、哲学的考察を試みた優れた著作が十分とはいえない状況にある。こうした状況下でマイケル・イグナティエフ著『人権の政治学』の刊行は、上記のニーズに応えた著作であるという意味で、さらには著者の注目すべき旺盛な理論的主張を展開した著作としても、時機を得た貴重な貢献である。しかも、添谷育志氏と金田耕一氏の訳業は卓越したものであり、本書の論旨を精確に分かりやすく伝えてくれている。
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初めに本書の構成を見ておこう。本書は独創的な政治理論家およびジャーナリストとして名高いイグナティエフの二つの講演「政治としての人権」および「偶像崇拝としての人権」(第一部)を中心に構成されており、これらの二つの講演に対する四名の理論家(K・アッピア、D・ホリンジャー、T・ラカー、D・オレントリッチャー)のコメント(第二部)、それらのコメントへのイグナティエフの応答(第三部)が収録されている。また本書全体へ「序」として、エイミー・ガットマンによる包括的な紹介と要約が掲載されている。
イグナティエフ自身がきわめて論証的かつ明晰な議論をすることは周知の事実であるが、本書にも彼のこうした理論家としての特質がいかんなく発揮されている。本書におけるイグナティエフの注目すべき積極的な主張や興味深い指摘は数多くあるが、そのなかでも以下の五つの主張は論争的であり、また刺激にみちた貴重な論点を提示している。第一の主張は、人権保障の目的は何かという基本的問題に対する彼の回答の試みに見ることができる。A・ガットマンが指摘したように、この基本的問題については単純な合意はなかなか得られそうにないが、イグナティエフはこの問いに対して多少なりともプラグマティックな仕方で「主体的行為者としての人間」(human agent)を護ることであると答えている。第二の主張は、上記の人権保障の目的は、アイザイア・バーリンがホッブズから着想を得て定式化した「消極的自由」(negative liberty)?「強制や妨害なしに合理的意図を達成する能力」、つまり、虐待、抑圧、残酷さからの自由?を通じて確保されるとする彼の議論である。
第三の主張は、今日の人権論の主流を形成する世俗的ないし非宗教的アプローチの多くが、人権の価値を十分な論拠なく絶対化することによって、人権の「偶像崇拝」(idolatry)がそこに帰結しているのではないか、というイグナティエフの批判である。第四の主張は、人権の哲学的・宗教的・形而上学的基礎づけに対するイグナティエフの批判であり、この反基礎づけ主義に基づく批判は上記の第一の主張と密接不可分に関連している。さらにこれら上記の主張を受けた形でのイグナティエフの第五の主張として、前世紀の人権革命の母胎となった「世界人権宣言」を高く評価する議論があり、しかもその評価は、同宣言の論拠について、それが宗教的論拠を回避し、あえて世俗的論拠を提出することによって道徳的多元主義を許容した点にあるとしている点に置かれている。これらの主張はいずれも重要で興味深いものであり、それぞれ厳密な検討と精査を必要とするが、ここでは第一の主張について簡単に見ておくにとどめたい。
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第一の主張は、一種のプラグマティズムの立場に基礎を置いた人権ミニマリズムの思想を表現するものであり、一方で人間の尊厳の根拠を神や宗教的源泉に求める前提を拒否する含意をもつだけでなく、同時にそれを人間本性論や自然法に求める哲学的ないし形而上学的前提をも否認するものといえよう。おそらく多くの異なった文化圏や宗教圏の差異を乗り越える形での国際人権レジームの構築に、プラグマティックな人権ミニマリズムは有効だというイグナティエフの想定をここに見ることができよう。このプラグマティズムは「人権が現に人間にとって役立っているということを根拠にする」ものにほかならない。しかし、この人権ミニマリズムは狭きに失してはいないか、という批判は起こりえるであろう。実際にガットマンは、生存の権利、最低限の経済的文化的生活や福祉の保障、諸種の政治的自由を排除したこの定式化については、懐疑的である。人権ミニマリズムが、多種多様な価値観を有する諸集団の「重なり合う合意」(overlapping consensus)を促すものであるという議論の説得性を認めつつも、それがまた人権の多様で豊かな意味合いをかえって捉えそこなうことになりはしないか、という危惧も当然生まれてこよう。
本書は論争的で興味深い主張や議論を数多く提起しており、人権の政治理論、人権の法理論を模索し探究する上で重要かつ不可欠な著作であることは間違いないであろう。

他人に対して感情的に振る舞ってよい場合もある。その方が親密になれる場合もある。仲のよい間柄では率直な感情の表白が円滑さを増大する。感情的振る舞いのよしあしは一律には定まらない。或る人の喜びの感情が周囲を励ますこともある。また、妬みを生み出すこともある。或る人の悲嘆にくれた姿が、近くの者をどうしようもなく憂鬱にする場合もあれば、かえって奮い立つ力を与える場合もある。同じ感情の発露であっても、場合によって周囲に与える影響は異なる。しかし、それだけではない。誰が悲しんでいるのか、誰が喜んでいるのか。感情の主体によって感情の果たす役割は異なる。あの人が怒っているのだから、近寄らないようにしよう。あの人が怒っているのだからよっぽどのことがあったのだろう。誰がその感情を抱いているのか。周囲に与える影響が異なる。誰が、いつ、どのような場合に、そのことが感情の受け取り方に大きな影響を与える。行為の評価についてもほぼ同様である。しかし、感情の方が主体への関与の仕方が強く深い。

柔らかくはじめた話しに柔らかい見通しを与えてみよう。感情は或る特定の誰かについて言われる。「或る特定の」というのはその当人の現在の状況だけではなく、その人の生まれてからの歴史が含まれているということを示す。なぜあの人はあのときに涙したのか。その人の子供時代の体験がそのことを説明してくれる場合もある。要するに、感情は或る特定の人について言われるということである。私たちの時代にはこのことが見えにくくなっている。自分を守らなければならない。あなたと私は違う。でも、同じところだってある。そんなことに騙されたらひどい目に遭う。正しいことを言っただけで、いじめられるのだから。でも、でも、私だけが感情の主体ではない。或る特定の人、自分もその一人である、多くの場合には他人がそうであるような人、それが感情の主体である。他人の感情の発露をその人の歴史とともに理解するという経験、これが私たちの利己主義的傾向を少し弱めてくれる。そして私たちの感情の制御を少し強いものにしてくれる。それはまた幸せに近づくことでもあろう。

一七世紀の哲学者たち、スピノザもデカルトもこのことに多くの力を注いだ。スピノザの『エティカ』、デカルトの『情念論』は他人と自分とを等分に見ながら感情の効用と抑制の仕方を教える。哲学をすることがその人のよく生きることと同じであった時代の思索である。佐藤一郎によれば、スピノザにおいて「至福と正義は」「よく生きること(bene vivere)というひとつのあり方として、自由の人の、言い換えれば知者(sapiens)の生において一致する」(一六三頁)。私たちの時代はこの「知者」を見失っている。知っていればいいというものではない。知者の不在と、感情を哲学的に論じる術がなくなっていることとは、軌を一にするように思われる。スピノザは『エティカ』「第三部」「感情の定義六」で「愛」を次のように定義している。「愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである」、と。彼によれば「絶対的に無限なもの」を知的に愛することに「平安acquiescentia」と幸福は存する。幸福は理解のもとに得られる。「愛」は外部に開かれている。このこと自体はアリストテレスの『弁論術』「第二巻第四章」における「愛」の定義以来変わってはいない。「愛」は外部へと理解を拡張することを含んでいる。スピノザもデカルトも、古代と現代との中間に位置し、古代の智恵を現代に伝えている。それだけではない。一七世紀の哲学者たちは「愛」を個々人のこととして個々人の身体との係わりのなかで論じている。

そもそも感情とは個々人が外に向かって開かれていることの証拠である。外部から身体を介して蒙るものである。蒙るという受動性のゆえにそれを制御する意志の働きが個々人の身心の安定に欠かすことができない。外部の原因に発する悪意のこもった感情を蒙って、それを制御しかねて心と身体のバランスを崩す。それをその当人の心の弱さに還元してはならない。外部にそのような原因がなかったならば、身心のバランスも保たれていたであろう。個々人の感情障害の一因は集団的感情過多という症状でもあろう。私たちが感情的に振る舞って他人にいやな思いを与えることを少しでも差し控えるのならば、心身症も減少する。スピノザやデカルトの教えから導き出すことのできる柔らかい帰結の一つがこれである。



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