シュミットの挑戦
シャンタル・ムフ編『カール・シュミットの挑戦』
によせて
谷 喬夫 
(たに たかお 新潟大学大学院現代社会文化研究科教授)

 シュミットの公法・政治理論の基本概念は周知のこととなった。しかしシュミットとはいったい何者であるのか、またその理論が、二一世紀にいかなる意義を持ちうるのかは今でも簡単に答えられない。二〇〇六年七月に福岡で開催される第二〇回世界政治学会において、シュミットの現代的意義をめぐるセッションが予定されているのもそのためであろう。このたび翻訳されたシャンタル・ムフ編『カール・シュミットの挑戦』に収められた一〇本の論考を読むと、われわれはシュミット政治理論への関心が現在何を焦点としているのか、また何処まで辿り着いているのかを知ることができる。しかし、多様な論点を含む一〇本の論文をわたしの関心から抜粋してもあまり意味がないと思われるので、ここではシュミットの挑戦について、わたしの若干の感想を述べさせていただきたい。
現代世界の政治イデオロギー上の不安定要因は、二つの原理主義、すなわちイスラム原理主義(国家、テロリズム運動)とアメリカ型のキリスト教および自由主義的原理主義との戦いであろう。自由民主主義がファシズムのみならず共産主義にも勝利した今なお、われわれは「イデオロギーの終焉」どころか、一七世紀以来の宗教戦争の呪縛から逃れることができない。ネオ・コンのケーガンによれば、「文明の衝突」(S・ハンチントン)の問題が提起される中で、ヨーロッパがカントの世界に安住し「審議民主主義」を謳歌しているのに対して、アメリカは依然としてホッブズの自然状態を生きているのだとされる。そうだとすれば、ホッブズこそ真の体系的な政治思想家であるとしたシュミットは、こうした状況にいかなる判断を下すであろうか。あらかじめ述べておくと、わたしはシュミットの政治思想は単純かつ底の浅いアメリカ製ネオ・コンに、ヨーロッパ精神史に基づく深い基礎付けを与える点があると思う。それは結局、自由民主主義への貢献なのかそれとも挑戦なのか。
ヴァイマール時代のシュミットは、カトリックの信仰者として、西欧キリスト教世界に対する脅威を、産業革命と自由主義による経済的、技術的思考と都市プロレタリアートの社会主義という、二つの無神論に見出していた。ところが革命によってロシアはキリスト教圏から離脱し、そこに経済・技術思考を受け継ぐ社会主義とバクーニンに代表されるスラブ的無政府主義の恐るべき結合を生み出した。シュミットによれば、バクーニンのスラブ的無政府主義が約束するものは地上の楽園ではなく、無秩序という最悪の野蛮でしかない。これこそヨーロッパ最大の危険であって、であればこそシュミットは「中立化と脱政治化の時代」(一九二九)の冒頭で、ヨーロッパ人が今や「ロシア人の眼下に」、その脅威の下に生きていると強調したのである。
バクーニン的スラブ無政府主義に対して、シュミットによれば、カトリック教会(そしてそこから派生した帝国さらに国家)の、言い換えればヨーロッパ政治思想の本質は、危険で悪しき人間性(原罪)を質料としながら、なお反対物(例えば善と悪)を複合的に統合しうる「特殊形相的な優越性」にある。その形相(形式)的優位とは、「制度的なものの中に存し、本質的には法的な」合理主義のことである(『ローマカトリックと政治形式』一九二五)。と同時に、シュミットによれば、反対物の複合を可能にするために、カトリック教会は永遠の相の下ではあらゆる対立を包摂しつつも、具体的状況下で要求される問いに対しては、キリストの人格を「代表」する教皇の名によって何が正義であるか、何が敵であるかの公的「決断」を、たとえどちらにも賛成できない場合であっても、なお下さなければならない。その決断なしに反対物が統合されることはありえないからである。それは、裁判官が決断を下す(判決)ことなしに法秩序が維持できないのと同様である。こうした事情は国家についても言える。しかるに当時の自由主義的議会の非人格的(無責任)な多数決は、かつてイエスを磔に盗賊バラバを赦免にしたように、何が真理で正義であるかを決定する能力を喪失している(『政治神学』)。しかし政治指導者が正義や真理、さらに敵を人格的に決断できないのは、「政治的終末の兆候」(『政治の概念』)に他ならない。
以上が当時のシュミットの危機診断であるが、しかしわれわれが知っているように、それはドイツの自由主義には的中したが、イギリス、アメリカの自由民主主義には当てはまらなかった。アングロ・サクソンの自由主義は誰が敵であるかを決断する力を有し、二〇世紀後半、ついにはロシアの共産主義にも勝利するに至ったのである。
そう考えてみると目下の世界政治に対して、わたしは、シュミットならば、われわれは「イスラムの眼下に」、その威嚇の下に生きているというのではないかと思う。しかも、イスラム原理主義は無神論ではなく、かねてよりキリスト教的ヨーロッパの不倶戴天の異教である。シュミットからすれば、イスラムの神政政治は、反対物の存在を許容しない一元的な支配である。対立物の中から生み出される豊かな文化の豊饒は、ヨーロッパの森林に覆われた多様性から生み出されたが、天蓋なき砂漠の世界では、アラーへの絶対的な帰依の前ですべて蒸発することになるであろう。そうであるとすれば、シュミットは「悪の枢軸」への戦いの先頭に立つアメリカ大統領を、結局ヨーロッパ秩序の正当な後継者として認知することになるのではないか。シュミットにとって、イスラム原理主義の挑戦にたいして審議民主主義を対置するのは、革命を前にして民衆の善意を信じていたフランス貴族と同じ轍を踏むものであろう。それはキリスト教的西洋の政治的終末を象徴するものである。イスラム原理主義と対峙する中で生み出された、西洋における戦闘的自由民主主義と審議民主主義の分裂と対立。わたしはここに今なおシュミットの挑戦があるのではないかと思う



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