留学生がうちたてた「金字塔」
  ──関権 著『近代日本のイノベーション──特許と経済発展』によせて
牧野 文夫 
(まきの ふみお 東京学芸大学教授)

 本書は著者の関権さん(現在 中国人民大学経済学院副教授)が一橋大学に提出した学位論文をもとにそれを改稿し、さらにその後新たに執筆した論文を加えて一書としたものである。本書のはしがきにも書いてあるように、これは著者の日本留学の総括に相当するもので、このような立派な書物を世に問うことができたことは、身近にいて関さんの研究者としての「発展」を見守り、またサポートしてきた者として誠に慶賀に堪えない。

 関権さんは私にとって南亮進先生(一橋大学名誉教授)門下の弟弟子に当たる。手元に残っている南ゼミの名簿を過去に遡ってみると、一九八八年度版に関さんの名が研究生として初めて登場する。したがって私と関さんとのつき合いは足かけ十五年にもなる。ちなみにこの名簿では、今や日本における中国経済研究の中心的役割を担っている杜進さん(拓殖大学・北京大学教授)や劉徳強さん(東京学芸大学助教授)は、それぞれまだ学習院大学助手、大学院博士課程一年生という身分にあり、思えば隔世の感がある。

 南ゼミには多くの中国人留学生が、主ゼミ・副ゼミとして参加していた。その大半の方たちはビジネスの世界や政府機関に職を求められたが、関さんのように学問を追求し学位まで取得された方は極めて少ない。ゼミナリステンの関心あるいは研究テーマは、当初は日本経済に関するものが多かったものの、やがて指導教官の南先生の関心の変化にともない、中国経済を研究対象とする人たちが増えていった。

  その中にあって、しかし関さんは頑なまでに日本経済を研究テーマとすることに固執した。それは、日本経済の分野の研究で認められてこそ日本に留学しそこで学ぶ意義があり、真の意味で日本人研究者に肩を並べることができる、という関さんの堅い信念にもとづくものであった。この信念こそが本書を生み出す原動力となっていると言っても決して過言ではないだろう。

 関さんはいわゆる「文革世代」で、十代の後半から二十代の前半にかけて「下放」生活を余儀なくされ、その後東北師範大学に進学され日本語を学んだという。余談だが、私は酒の席で外国人である関さんから何度か、日本語文法、特に格助詞の「は」と「が」の区別についての講義を聴いたことがある。アルコールが入っていたからであろうか、残念ながらその内容はよく覚えていない。近頃娘からこの種の文法について質問を受けることがある。恥をさらすようだが、それには正確には答えられない。今更ながら関さんからしっかりと教えを受けておけばよかったと、反省すること頻りである。今書いているこの文の文法にも誤りがないか冷や汗もので、私自身は「名前負け」していると率直に白状せざるを得ない。

 関さんは留学前から日本経済を勉強していたということであるが、経済学の本格的な学習は、来日後に始まったものでその意味では「晩学組」といえよう。研究者レベルの人が必須とする経済理論を習得するためには、多少なりとも数学的素養を必要とするので(ちなみに分数もわからないような最近の文系学生に経済学を教えるのには非常に苦労している)、率直に言って関さんのように三十歳前後から経済学の勉強を始めることは、かなりのハンディキャップを背負い込むことになる。さらに留学にともなう言語の違いもある。これらの困難を克服して本書のような立派な業績を残されたことに対して、心よりおめでとうと言いたい。

 本書の意義は、なんと言っても戦前の特許データにもとづきわが国の工業化過程における技術革新を定量的かつ実証的に明らかにした点にあると、私は思っている。私も戦前日本の技術発展についての書物(『招かれたプロメテウス──近代日本の技術発展』)を同じく風行社から刊行させていただいたが、そこでは技術の普及という側面を中心に論じたが、本書のように技術革新を生み出す側面についてはほとんどふれることはなかった。関さんは特許データを丹念に収集・加工して、この問題にチャレンジした。特許データ自身は『工業所有権制度百年史』などに掲載されているが、それを使った本格的な経済学的分析とくに多変量解析を積極的に用いたそれは、日本ではこれまでほとんどなかった。その意味で本書は非常に画期的な書物である。もっとも日本人という立場から見れば、この分野の研究で外国人の関さんに先鞭をつけられたことには、いささか複雑な感情もなくはないが……。

 第二の特徴は、最近の経済理論の最先端を行く制度派経済学の視点を、積極的に取り入れたことである。特に本書の第?部に集められた章には、新制度学派経済学の成果を経済史に応用しようと試みる著者の意気込みが強く感じられる。とりわけ実用新案という日本独自の制度が果たした役割の評価は大変興味深い。また第?部の個別産業の事例も大変興味深い。ここでは輸送用機械産業に属する三つの産業(人力車・自転車・自動車)のイノベーションが取り上げられている。本書の前半の定量分析をふまえた事例研究として、本書の価値を高めることに貢献している。経営史の観点からみても、これらの三つの章は優れた内容であろう。最後の章では日本の技術革新の歴史的経験を、雁行形態論を使って一般化しようと努め、またその含意を現在の発展途上国にどのように適用すべきか真摯に論じている。最近の中国では日本から学ぶべきものは最早ないとまで言われているようだが、その中国人の眼から見て日本の経験に教訓とすべきものがあるというのが本書の視点である。日本人は過去の歴史から学ぶことが不得手であると言われるが、本書を読んで現在の技術革新の停滞を打破する何らかのヒントが得られるものと期待している。

 「風のたより」という販促誌の紙面で、私のような立場の者が本書の内容についてこれ以上の饒舌を振りまくのはやめ、今後専門学術誌で掲載されるであろうより中立的な立場からの書評に譲ろう。著者の先輩であり、出版に際しての産婆役という立場にある私にとって、経済学、経済史、経営史などの境界領域にまたがる本書が、多くの専門家・産業人・学生に読まれることを期待している。また日本で学んでいる多くの中国人留学生にとっては、本書に結実した優れた業績を挙げた先輩を持てたことは、大いに誇りとなるであろう。最後になるが、中国の学界では日本留学組の処遇はアメリカ留学組に比べると低いという。おそらく本書の中国語版が早晩出版されるものと期待しているが、それが少しでも日本留学組の評価の挽回につながれば幸いである。本書はそれに充分値すると信じている。



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