実践哲学の歴史と現代的課題
  ──O・ヘッフェ『現代の実践哲学──倫理と政治』刊行に際して
海老原明夫 
(えびはらあきお 東京大学教授)

(本書第2章訳者)

 「実践哲学」とは、果たしてどのような学問なのだろうか。「実践哲学」の「実践」とは一体何を意味するのか、そしてその「実践哲学」は現代の我々にとって、どのような意義を有するのだろうか。

 古典古代以来の西洋哲学の長い伝統の中では、哲学は、人文科学のみならず社会科学・自然科学をも含めた、人間の知の集大成たる網羅的体系であった。その壮大な知の体系を最初に見事にまとめて見せたのが、他ならぬアリストテレスである。アリストテレスが著した、哲学の諸分野についての広範かつ膨大な著作のテキストは、──一部には偽作と評価される作品もあるようだが──その大部分が幸いにも古代から中世・近世へと伝承されてきた。中世・近世の学徒が哲学を志すときには、まずもってこのアリストテレスの著作と対決することが不可避であった。つまりアリストテレスの著作は、神学者にとっての聖書、あるいは法学者にとってのユスティニアーヌス法典と同じような意味を有する「教典」だったのである。アリストテレスの著作とその体系構成とに規定された、中世・近世の哲学は「正統哲学(Schulphilosophie)と呼ばれる。

 この「正統哲学」の体系は、「理論哲学」と「実践哲学」とに大きく分けられる。そして「実践哲学」の中心を成したのは、倫理学・家政学・政治学という三学問である。この三つの学問が「実践哲学」として一つに括られていたのは、今日の学問理解からすると不思議に思えるかもしれない。三つの学問は、今日ではそれぞれに考察対象も学問的方法も異なっているからである。たしかに倫理学は現代においても哲学の一分野であるが、家政学は、衣食住に関する消費生活の知識を扱い、政治学は、国家の統治を扱う。これらの今日では別系統に属させられている三学問は、しかしながら、かつては本質的な共通項を有していた。それは、そのいずれの学問も、支配という意味での「実践」に関わる、という点である。すなわち、倫理学は霊魂の肉体に対する支配を扱い、家政学は、今日とは異なって消費のみならず生産の単位でもあった個々の家の構成員と資産とに対する家長の支配を扱い、政治学は都市国家(ポリス)における政治的支配を扱ったのである。「実践哲学」における「実践」とは、とりもなおさずこのような意味での「支配」をその内容としていた。「実践哲学」とは、言うなれば支配者の学問だったのである。

 しかしながら、このような「支配」を中心に据えた「実践」理解は、近代社会にそのまま生き残ることはできなかった。その変化を最も如実に示すのが、「家政学」の解体過程である。国民の圧倒的多数が農業に従事していた前近代においては、生産活動の場は個々の家であったが、商工業の発展とともに家は単なる消費の単位へと変化し、家政学の枠内で扱われていた農業・手工業の生産技術論は、農学や工学といった独立の実用学問となっていく。また家の中の人間関係も、家長の家族構成員に対する支配という色彩を次第に失って、愛を媒介とする親密で情緒的な結合へと変化していった。この変化は、政治学における実践主体にも決定的な影響を及ぼさずにはいない。すなわち、かつての都市国家においては、たとえ共和制が採用されていたとしても、その構成員は自らの家を支配する家長たちであったのに対して、今やすべての個人が、政治的実践の主体として立ち現れてくるからである。

 もちろんそのような変化は、一朝一夕に成就されるものではない。近代的な個人概念の確立に大きく寄与したカントにおいても、その「公民」概念は、伝統的な家長のイメージをなお払拭し切れていなかった。ようやくヘーゲルに至って、伝統的家父長像から脱却した、近代的個人像が明確に打ち出されることになる。そのヘーゲルが、近代的な「実践主体」概念を確立するために、様々な思索を積み重ねていたのは、決して偶然ではない。そうしたヘーゲルの足跡の中に、「労働」の概念を媒介とした主体概念の樹立の試みがあり、それがマルクスに決定的な影響を与えたことはよく知られているとおりである。

 しかしかつての「支配」を中核的内容とする「実践」概念に代えて、「実践」の内容を──たとえば労働という概念によって──一元的に規定し尽くすことは、現代においては、決して容易ではないし、またおそらく適切でもないのであろう。現代に生きる諸個人の多様な生き様を反映して、現代における「実践」概念も多岐多様な内容によって充たされざるを得ない。のみならず、現代社会に日々突きつけられる未曾有の難問は、個々の行為主体に対して抜き差しならぬ「実践」を迫っている。現代における「実践哲学」の課題は、まさにそのような困難な状況にあって、個々の行為主体が執るべき「実践」についての示唆を与えるところにある。むろん「実践哲学」は、なさるべき「実践」について一義的な答えを与えることはできない。特定の「実践」を選び取ることは、いうまでもなく個々の行為主体の権限と責任とに委ねられている。しかし、いかなる「実践」があり得るのか、複数の選択肢からどのように選択をすべきなのか、ということについて考えるための筋道を明らかにすることは、「実践哲学」の守備範囲であろう。

 「実践哲学」から有効な指針を獲得するためには、一方において現代の問題に対する鋭い分析力と洞察力が求められると同時に、他方において過去の偉大な知的営為に対する広く的確な見識が要求される。この両面を充分に兼ね備えた優れた学者は、稀にしかいない。そうした数少ない「実践哲学」の優れた先達の一人として、ドイツのテュービンゲン大学を本拠に活躍するオットフリート・ヘッフェを挙げることができる。ヘッフェ教授の日本における講演を編訳した新刊書『現代の実践哲学──倫理と政治』は、同教授の多くの著作で展開されている堅実で斬新な理論の概略をつかむために格好の素材であるといえよう。



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