法と民意のはざまの憲法裁判所
  ──J・リンバッハ著『国民の名において
──裁判官の職務倫理』(青柳幸一=栗城壽夫訳)によせて
野中 俊彦 
(のなか としひこ 法政大学教授)

 著者ユッタ・リンバッハは現在ドイツ連邦憲法裁判所の長官、しかもはじめての女性の長官である。彼女はベルリン自由大学の教授(民法、経済法、法社会学)から転じて一九八九年にベルリン州司法大臣となり、一九九四年春に、連邦憲法裁判所裁判官(副長官)に任命された。そしてさらに同年秋には長官に選任され、以来今日までその職にある。

 本書の題名である『国民の名において』は、国民主権国家ないし民主主義国家における裁判の正統性を示す言葉である。しかしドイツに限らず、およそ民主主義国家における憲法裁判には、何故多数の意思に反してまでも裁判所が少数の権利擁護に仕えることが正当化されるのか、という問題が常につきまとう。これは憲法裁判に関する根本的な問題であるが、本書はまさにこの問題を中心に憲法裁判の在り方を論じたものである。最近(ここでは一九九四年以降を指す)のドイツでは、この問題が大きくクローズアップされ政治問題化しているといってもよい状況にあり、そのことはすでに日本でも紹介されている(たとえば『ドイツの最新憲法判例』〔信山社、一九九九年〕のはしがき参照)。そのような時期の長官として、憲法裁判所の悩みを率直に提示しながら、しかし現在の憲法裁判所の在り方が適切であることを誠実に訴えた講演等をまとめたのが本書である。大分状況は異なるとはいえ、日本の違憲審査制の在り方を考えるにあたっても大いに参考になる内容を含んでいる。このたび最も適切な二人の訳者を得て翻訳書が公刊されるはこびになったことは、まことに喜ばしい。

 ドイツ連邦憲法裁判所は一九五一年秋の開設からちょうど五一年目を迎えるが、この間の長官は七人で、リンバッハは七代目の長官にあたる。歴代の長官はそれぞれに時々の法と政治のはざまで、さまざまな批判を受けながらも、連邦憲法裁判所の在り方をリードし、批判をはねかえしてきた。開設当初、連邦憲法裁判所の二つの法廷につき、それぞれ「黒い裁判所」、「赤い裁判所」という世評がかもしだされたことがあった。宰相アデナウアーは連邦第二チャンネル事件で、自分の意に染まない判決を目の当たりにして「こんなはずではなかった」とケルンの方言でつぶやき、その言葉が一時流行したりもした。しかしその頃の日本からドイツをみていると、KPD違憲判決をはじめとして「自由で民主的な秩序の維持」、積極的な体制維持とコミュニズム排除という点では一致しているという面の方が強く感じられた。一九七一年、四代目の長官に選任されたエルンスト・ベンダは直前まで当時の政権党CDU所属の連邦議会議員であり閣僚の経験もある現役の政治家であったが、年齢も選任当時四二歳という若さであった。彼がシュピーゲル誌のインタビューに答えて、ボンとカールスルーエの政治は同じではない。違う形・違う性質の政治であり、その切り替えが出来る以上、何も問題はないのだと述べていたことを記憶している。ともあれ連邦憲法裁判所は慎重な姿勢を貫くことによって、最初の頃の批判を沈静化することに成功していたのであった。

 最近の新たな批判は、連邦憲法裁判所の判決内容が国民の多数の意思に背いているとして、大々的な反対キャンペーンが展開された点で、従来の批判とはかなり性質が異なるものといえよう。連邦憲法裁判所の存在意義自体が厳しく問われたのであり、一九九六年のドイツ法曹大会の記念講演テーマに「連邦憲法裁判所よ、どこへいく」が選ばれたことは、象徴的である。リンバッハは連邦憲法裁判所をどこに導いていこうとしているのか。

 さて本書をもう少し具体的に紹介することにしよう。全体は三部構成で、第T篇「裁判官の職業倫理」、第U篇「連邦憲法裁判所の役割と権力」、第V篇「刑法と政治」となっているが、前二者が最も直接的に現在の問題に触れているところであり、本書全体の中心部分になっているといってよい。

 第I篇第一章「裁判官の独立」では、今日の裁判官には批判に耐える能力と対話能力を発展させることが肝要であり、正義の女神は目を開けていなければならないと説く。本書の刊行自体も著者のそのような主張の一環であろう。第二章「国民の名において――民主主義における裁判官倫理」は、本書の題名もここから出ているように、本書の中心をなす。裁判官は、一方では多数決ルールを、他方では社会の基本的諸価値を顧慮することを要求される緊張関係のなかで職務を司ることを自覚しなければならないと説く。

 第II篇第一章「政治的権力要素としての連邦憲法裁判所」においては、妊娠中絶判決やマーストリヒト条約判決などを引合いに出して、政治部門と連邦憲法裁判所の微妙な役割分担について論じている。第二章「連邦憲法裁判所の統合力」においても、たとえば社会国家原理の充填は政治部門の仕事であり、裁判所の仕事ではないと指摘している。第三章「憲法裁判所の判決の受容れ」は第?篇第二章での主張を最近の有名な判決に対する世評に反論する形で、より具体的に展開している(取り上げられている判決はいわゆる兵士判決とキリスト磔刑像判決で、前者では「兵士は殺人者だ」という表現につき名誉毀損と認めなかった判決が、また後者では一部市民の異議により学校での磔刑像設置を違憲とした判決である。これらを中心に大々的な連邦憲法裁判所批判が展開されたのであった)。

 第III篇第一章「冷戦における政治的司法」、第二章「刑法と政治的犯罪」、第三章「正義か宥和か」では、全体として旧東ドイツの断罪は必要であるが、どこまで厳しく、どこまで寛容であるべきかが論じられている。

 本書で扱われている諸問題は、どれ一つをとっても根源的な問題であり、それゆえ一義的解答も学問的には容易に出しにくいものばかりである。しかし連邦憲法裁判所は、その現実の活動の中で留保は許されず、常に決断しなければならない。理論家であると同時に最先端の実践の場で、ぎりぎりの決断を迫られる立場にある長官の議論であるだけに、全編が迫力に満ちている。もとよりその当否を論じるのはこの小論の目的ではない。なるべく多くの人にまずは読んでいただきたいと思う。



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