ロシアは決して「謎の国」ではない
  ──中村喜和著『ロシアの風──日露交流二百年を旅する』を読んで
安井 亮平 
(やすい りょうへい 早稲田大学名誉教授)

 ロシア人の考えることややることは、とんと見当がつかない。ロシアは不可思議な謎の国であると、あなたも思いますか。しかしたとえそう感じられたとしても、そのように思い定める前に、中村喜和さんの『ロシアの風』を読んでいただけませんか。どの章からでもよろしい。

「ロシアの人びと」という第?編では、ロシア人のさまざまな姿が描かれています。たとえば、「詩人トロチェフ」。


 トロチェフ(本当はトルシチョーフ)さんは、一九二八年に神戸で生まれました。父は日本に逃れてきた白軍の近衛士官で、母はやはり亡命して日本各地を巡業していた『スラーヴィナ劇団』の看板女優でした。詩人は、もっぱら貴族出身の母方の祖母によって旧ロシア風に育てられました。

 トロチェフさんは、日本語で詩を書きます。これまでに詩集を、『ぼくのロシア』(一九六七年)と『うたのあしあと』(一九九八年)の二冊出しました。中村さんは、「トロチェフさんの詩の中には、血でつながっているロシアと、彼が生まれ育った日本という二つの民族の感性がたくまずして融け合っているような気がする」と、書いています。引用されている何篇かの詩から、同じ様な感想を持たれることでしょう。

 一九九七年末に京都で、わがユーラ・スヴィリードフさんが夭逝しました。四十九歳でした。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などの説話文学について立派な業績をあげましたが、しかしユーラさんは本来もっと大きな仕事のできる人でした。本人としても無念だったでしょうし、ユーラさんを愛した一人として残念でなりません。中村さんも、「ロシア知識人の最良の典型であった」ユーラさんに、友情のこもった追悼文を捧げています。

 日本にゆかりのある人では、他にも、一八〇四年に長崎に来たロシア使節のレザーノフや、「雄々しい伝道者ニコライ」や、一九二六年と三二年の二回来日した作家ピリニャークや、佐々木信綱に学び「『万葉集』を露訳したグルースキナ」(好んで清水浪子という日本名を名乗りました)や、『北槎聞略』を綿密な注を付しロシア語に訳したコンスタンチーノフについて、それぞれの顔が浮き彫りにされています。中でも、ニコライの「容貌魁偉」さからトルストイを、またその「恐れを知らぬ性格や堂々たる体躯」からロシアの英雄叙事詩に登場する勇士を連想して比較したり、あるいは、ピリニャークと秋田雨雀との「ひびわれた友情」と、ピリニャークと米川正夫との親交ぶりを対比してのピリニャーク論などなど、中村さんならではの創意と観察に充ちています。

 著者の関心はもちろん、日本ゆかりのロシア人だけに留まりません。現代ロシアの人間と暮しにも目が配られています。「リハチョフ博士随行記」と「農村作家ベローフ」と「ソルジェニーツィンのやわらかい手」の三篇は、すぐれた現代ロシア論です。リハチョフさん、ベローフさん、ソルジェニーツィンさんという、現代ロシアを代表する三人の極めて個性的で、ことなる思想的政治的立場に立つ人物と著者との交流を通じて、現代ロシアの親の世代の直面する問題が、鮮やかに浮かび上がってきます。第U編に収められた「ロシア人の自然観一面」や「ロシアの同志今いずこ」もまた、現代ロシアを知る上で示唆的です。

 中村さんは永年にわたって、「ロシアの醇乎たる伝統文化の担い手」の旧教徒を追究し、発掘してきました。そして従来のロシア像(わが国だけでなくロシア本国をも含めて)を補正したのは、中村さんの大きな業績の一つですが(ロシア科学アカデミー、ロモノーソフ記念金メダル受賞講演「二〇〇年の絆」)、本書でも、アメリカに移住した旧教徒の歩みを伝える「エリー湖のほとり」とか、ルーマニアに渡った旧教徒の「サリキョイ村の歴史」とか、あるいは、ウラジワストークから横浜ついでアメリカに移った「ヴラーソフ一家」とか、いずれも、宗教的迫害や革命や戦争の激浪の中信仰と伝統を守り続けた、感動的な記録です。

 さらに、旧教徒ではありませんが、十九世紀末からほぼ一世紀にわたり激動の時代を生き抜いた、貧しい北ロシアの農民、イワン・カルポフの苦難の一生「浮世の海の波のまにまに」や、やはり同じ時期北ロシアのフィン系コミ人の農民イワン・ラスィハエフの手記に基づいてその生涯をスケッチした「夢見る農民」と「コミの旧習」は、私たちにほとんどなじみのない北ロシアの農民の豊かな世界を物語ってくれます。やはり北ロシア出身の「農村作家ベローフ」と併せ読むと、北ロシアの農民が身近な存在となることでしょう。ロシアもまた複雑でダイナミックで多層的な社会であることを、人間的共感をもって感じられるのではないでしょうか。

 ロシアは、好むと好まざるとにかかわらず、私たちの最も近い隣国です。第V編「ロシアと日本人」の「ロシアの極東進出」で詳論されているように、十八世紀七十年代から二百年以上にわたって、日本とロシアは交流を持ってきましたが、概して両国の関係は良好であったとはいえません。日露戦争(一九〇四〜〇五年)、シベリア出兵(一九一八〜二二年)、ノモンハン事件(一九三九年)、第二次世界大戦(一九四五年)と、不幸なことに戦争の連続でした。

 これは一つには、両国民の相互理解の不足と偏りによっています。考え方の違いによる誤解と衝突は、すでに最初の外交交渉時にみられましたが(「タタミの上の外交交渉」)、それ以来今日まで尾を引いています。この点で、十八世紀末にロシアから帰還した最初の漂流民、大黒屋光太夫(「光太夫のロシア」)や、一八七五年の樺太・千島交換条約の日本側代表の榎本武揚(「榎本武揚のシベリア紀行」)や、一九二七年から三五年までロシアで生活したプーシキン学者鳴海完造(「鳴海蔵書の成立事情」、「青春のショスタコーヴィチ ──鳴海日記から」)ら、先人たちの体験は、プラス・マイナス両面から、私たちの参考になります。

 私たちの悲しい歴史をふまえて、日露戦争後の二葉亭四迷の「ミッション」のように(「将来の戦を避ける方法は唯一つ。即ち政府が戦はうとしても、人民が戦はぬから仕方が無いと言ふ様にする事である。それには両国民の意志を疎通せねばならぬ。」〔「送別会席上の答辞」、一九〇八年〕)、日本人とロシア人との意志の疎通に双方から努めなければと、心から思います。

 むろん本書によって、ロシア人やロシア社会のすべてが尽くされるわけではありません。ユーラシア大陸にまたがる広大な国土、さまざまな地方色、一億三千七百万のロシア人以外にも一〇〇をこえる民族、ロシアの歴史は比較的短いとはいえ、二十世紀に戦争と革命、社会主義体制の建設と崩壊を経験しただけに極めて複雑な状況、これらを考えれば当然のことです。

 しかし本書で「ロシアの風」を感じられたら、もうロシアを「謎の国」視されることはないだろうと思うのです。



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