新しい「収斂論」か?
  ──今井弘道編『新・市民社会論』によせて
川崎 修 
(かわさき おさむ 立教大学教授)

 「市民社会」という言葉を中心に展開される政治・社会理論が注目を浴びるようになって久しい。周知のように、この古い歴史を持つ言葉の時ならぬ復活は、いわゆる民主化の「第三の波」、とりわけ一九八〇年代の東ヨーロッパやラテンアメリカ諸国における民主化の運動の実践と解釈に始まった。その際には、「市民社会」とは、共産党や軍隊と一体化し強大化した国家組織に対抗する、市民の自発的な運動やネットワークのことであった。そこで重要なことは、こうした運動が、政治権力の奪取や既成権力の転覆を直接めざしたものではなかったという点である。ポーランドの連帯の運動に端的に示されるように、東欧の民主化の指導者たちは、この運動を拙速に「政治化」しないことに細心の注意を払った。権力装置としての国家と対抗する「社会」にとどまり続けること、「ハンガリー革命」や「プラハの春」の教訓から彼らが引き出したのは、この「自己限定革命」の戦略であった。

 ところがほどなく、この新しい「市民社会」観念は、権威主義的政治体制の民主化という文脈をこえて、「西側」の自由民主主義的政治体制をもつ社会においても、その社会の更なる「民主化」ないしある種の変革への方向性を示唆するものとして語られ始めた。今井弘道氏らによるこの『新・市民社会論』もまた、基本的には、こうした「市民社会」概念の再活性化の理論的文脈を前提に書かれた一冊である。

 ところで、八〇年代の民主化における「市民社会」発見は、人権や立憲主義といった自由民主主義的諸価値や制度の、マルクス主義者による、あるいはマルクス主義を公定イデオロギーとする社会における「発見」であった。(ラテンアメリカでの「市民社会」の理論や運動は、マルクス主義の理論的影響を強く受けた経歴のある人々によってしばしば担われていた。)また、今日の西欧や北米、さらには日本において「市民社会」の現代的意義を強調する理論家たちの中にも、グラムシ派をふくめた広い意味でのマルクス主義の影響を受けた人々が少なくない。彼らはしばしば「ポスト・マルクス主義」者という自己規定をするが、このことはさまざまな意味で現代の「市民社会」論そのものにも当てはまる。

 それでは、自由民主主義的制度を有する社会においては、「市民社会」の観念はどのような意義を持ち得るのだろうか。それは一言でいうならば、現実の自由民主主義社会がその価値理念を充分に実現させていないということを批判することだと言えよう。そして、その場合、自由民主主義社会の「現実」とは、何よりも市場経済と官僚制国家だということになる。その意味では、自由民主主義社会における「市民社会」論は、基本的に、マルクス主義的な市場経済批判やネオマルクス主義的な官僚制国家批判としての自由民主主義批判のモチーフを引き継いでいる。しかし、そこには決定的な違いがある。それは、「市民社会」論は、自由民主主義の現実には厳しい批判を向けるとはいえ、その価値や理念は共有しているということであり、従って、そこにおいては、社会主義的であれ何であれ、もはや「革命」がめざされることはないということである。その意味で、「市民社会」論は「ポスト革命」の思想である。そして、だからこそ、こうした意味での「市民社会」論は、何らかのマルクス主義的系譜に立つ人々だけでなく、自由民主主義的な知的系譜にある人々の間でも、広範に受け入れられるようになっているのである。

 興味深いのは、こうした「市民社会」論は、資本主義と社会主義との収斂を予言(あるいは期待・危惧)した「収斂論」の新しい形態と言えるのではないかということである。第二次世界大戦以後、近代化論、産業社会論、「イデオロギーの終焉」論、ポスト産業社会論、管理社会論など、様々な形で資本主義と社会主義の「収斂」現象が指摘されてきた。それらの議論は、資本主義と社会主義は、異質な体制である以上に産業社会としての共通の性格を多く有しており、共通の課題や困難に直面しているという認識を強調してきた。そして、そうであるがゆえに、そうした議論は、それぞれの時代において大きなインパクトを与えてきたが、同時に、両体制の異質性を強調する人々からは強く攻撃されてもきた。

 ところで、今日では、この「収斂」はほとんど現実のものとなりつつある。いまでは、ホブズボームのような人でさえ、資本主義や社会主義といった体制は産業社会のあり方のサブ・カテゴリーに過ぎず、さらに現実には「純粋な」資本主義や社会主義などというものは、今日においては存在しないのだということを強調するにいたっている。そして、「歴史の終焉」論とは、この「収斂」の事実を、自由民主主義の勝利として表象したものだと言えよう。しかし、「市民社会」論者もまた、「収斂」の事実を認識した(つまり、産業社会を運営する最も効率的な方法は市場経済だということを認めた)上で、自由民主主義の理念(自由と平等、そしてそれを担保するための人権の尊重、複数の政党による競争のある民主主義政治をともなった立憲主義の諸制度の理念など)の優越性を是認するというかぎりでは、実は「歴史の終焉」論者と大差はない。ただ、違うのは、そこから、現存する自由民主主義の社会の現実を擁護するのか批判するのかということである。その背景にあるのは、現存する自由民主主義の現実に対する評価の相違であるとともに、自由民主主義の理念の解釈の相違である。その違いは大きくも小さくもなり得るだろう。

 社会主義が政治的理念としての力を失った今日、逆説的ながら、自由民主主義は自己満足の中に退廃する危機をますます深めている。そんな中で、「市民社会」論は、自由民主主義に新たな「問題発見能力」を与え、それを研ぎ澄ませることができるのだろうか。『新・市民社会論』に収められた諸論考は、それぞれが、この問に対する一つの答えとしても読むことができるだろう。



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