シュミットの法治国家論
  ──『カール・シュミット時事論文集──ヴァイマール・ナチズム期の憲法・政治論議』第五章を読んで
高田 敏 
(たかだ びん 大阪国際大学教授)

 古賀敬太・佐野誠編『カール・シュミット時事論文集――ヴァイマール・ナチズム期の憲法・政治論議――』が、このたび風行社から出版されることとなった。本書は、ヴァイマール共和政期からナチズム期にかけてのシュミットの一連の論文、とくにいずれかといえば時事的性格を有するものを翻訳したものであり、両期にかけてのシュミット思想の連続性を明らかにしようとするものであって、八章から成っている。
 この本書の主題を、ここでは、私に与えられた課題・シュミットの法治国家論(本書第五章)について、検討させていただきたい。



 そもそも、シュミットの法治国理論は、ドイツ法治国家論史において、検討されるべき重要な対象である。それは、彼の法治国家論が、ヴァイマール憲法下において影響力のあった理論であり、またナチズム期において重要な役割を果たした理論であったからである。つまり、シュミットという一人の人物が、全く性格の異なった二つの体制のもとで、共に影響力を行使したのは何故か。両時期の彼の所説に関連性があるのか。シュミットの中で、二つの異なった法治国家論は、どう結びつくのか。このような問いは、ヴァイマール共和国時代の法治国家論の一面を解明するためにも、またナチズム期の法治国家論を認識するためにも、必要な問いである。

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 さて、ヴァイマール共和制時代におけるシュミットの法治国家論であるが、当時の通説は、彼の法治国家観と異なって、いわゆる形式的法治国家観であった。そもそも、ドイツにおける法治国家観は、十九世紀前半においては、自由主義的な国家目的を表示するものであったが、シュタールにおいて国家目的実現手段を表示するものへと転換され、ビスマルク憲法下では、その手段が法律による行政と行政裁判と解されて通説化した。そして、この見解は、憲法体制の転換したヴァイマール憲法下においても、通説として妥当した。しかし、一九二〇年代末以降のヴァイマール時代においては、通説と異なった、或種の実質的な法治国家論が登場した。その代表的なものが、シュミットの市民的法治国家論(本書第五章第T論文、および一九二八年の『憲法論』)と、ヘルマン・へラーの社会的法治国家論であろう。
  シュミットは、法治国を市民的法治国ととらえて、市民的自由を基礎におき、その構成要素として配分原理としての基本権と、組織原理としての権力分立を掲げる。ヴァイマール憲法は、その第二編第五章において、人間に値する生存の保障とそれに適合する経済生活の秩序を定め、ヘラーの言うように社会的法治国を指向したものと解されるが、シュミットは、同憲法が十九世紀的な市民的法治国を指向したものとし、すでに歴史的役割を終えたものと消極的に評価する。そして、市民的法治国を相対化し、駆逐する道具立てを行っていたのである(たとえば、法治国家的構成部分の外部としての憲法制定権力、形式的法律概念と政治的法律概念の区別、政治的権利の保護の相対性、等)。

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 ナチズム期に入ると、シュミットは、市民的法治国に対する消極的評価を前面に押し出し、とくにその自由主義的性格を過去のものととらえて、ナチズム国家を称揚する(第五章U乃至W論文)。ナチズム国家は、シュミット自身も認めるように、本来的法治国家ではない。しかしそれにもかかわらず、当時、同国家は法治国家と称されたのである。
 では、シュミットは、どのような手法で、ナチズム国家を法治国家と構成したのであろうか。
 彼は、「形式的意味における法治国家、すなわち法律国家の指標」とされる「国家の司法と行政の法律適合性」等がナチズム国家においても維持されているが故に、同国家は法治国家であるとする(第U論文)。しかし、そこにおける「法律」は、政府の制定した法律・憲法改正法律である。
 他方、彼は、形式的法律国家性(formale Gesetzesstaatlichkeit――彼においては、市民的法治国、ヴァイマール共和国)を批判し、それと「正義」・「事物においてよき法」との対立の解消を、ナチズム国家の側から説いている(第U論文)。

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 このようなシュミットのナチズム期における法治国家論の手法は、シュタールの法治国家論のそれを連想させる。ただ一般には、シュミットの市民的法治国家論がシュタールの国家論・法治国家論と対称的なものであり、またナチズム期のシュミットがシュタールの厳しい批判者であった(彼はシュタールをユダヤ名で呼んでいる――第V・第W論文)ことから、両者の手法の相似性は指摘されていない。
 しかしシュタールは、十九世紀前半を支配した自由主義的な法治国家論に反対であった。それにもかかわらず彼は、「法治国家」という時代のスローガンには反対し得なかった。それ故彼は、法治国家を国家の目的・内容ではなく、それを実現する手段・形式ととらえ、実質において反自由主義的な国家論を彼の法治国家に結合させたのである。
 他方、シュミットは、市民的法治国、自由主義的法治国を徹底して批判したが、ナチズム国家を法治国家と性格づける必要上、それを全く形式的にとらえ、実質において前者と全く相異なるナチズム国家を結合させたのである。
 このように解すると、シュミットのナチズム期の法治国家論は、その手法において、シュタールと共通のものであったと言えるのではないか、と考える。

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 シュミットの法治国家論は、ヴァイマール共和国時代には市民的法治国家論、ナチズム期には同期に対応した国家論と、両期において全く異なるものであった。それにも拘らず、ヴァイマール期のシュミットが反市民的法治国家的であったという点において、両期の彼の理論に継続性を認めることができよう。すなわち、ヴァイマール期には潜在的であった反市民的法治国家性が、ナチズム期に顕在化し、しかもそれがナチズムと結合するにいたったのである。

 また、反法治国家的ナチズム期において「法治国家」概念を維持した手法は、シュタールの手法と共通のものであったが、この手法こそが、第二次大戦後、ドイツ法学再生に際して否定されるべき対象であった。
 かくて、C・シュミットの反市民的法治国家論は、H・ヘラーの法治国家論と異なって、ボン基本法には、法治国家をめぐる概念・理論上の影響にもかかわらず、その本質において繋がらなかったと言えよう。



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