ヒトラーの魔性に取り込まれた神学者たち
 ──R・P・エリクセン著
『第三帝国と宗教
  ──ヒトラーを支持した神学者たち』を読んで
千葉 眞 
(ちば しん 国際基督教大学教養学部教授)



 第三帝国期におけるナチズムとキリスト教というテーマに関しては、不徹底ながらナチズムに果敢に反対しようと試みたプロテスタンティズムの「告白教会」の抵抗運動――K・バルト、M・ニーメラー、D・ボンヘッファーなど――やカトリシズムの「白バラ」運動――P・シュナイダーなど――が、これまで脚光を浴びてきた。しかし、ナチズムのお先棒をかつぐ結果となった「ドイツ的キリスト者」運動など、反動的なキリスト教の勢力も一部に根強くみられたことは看過できない事実であった。さらに全体的にみるならば、当時かなりの数のドイツのキリスト信徒が、一種のナショナリズム的見地から、ヒトラーの登場にキリスト教的な意味でも歴史的意義を見出し、ヒトラーの魔性的な魅力に取り込まれていった形跡がある。そして当時の高名な神学者たちの何人かも、反動的な「ドイツ的キリスト者」運動を支援するか、あるいはナチズムの魔性にからめ取られていった。本書は、不用意にヒトラーを支持するにいたった神学者として、ゲルハルト・キッテル、パウル・アルトハウス、エマヌエル・ヒルシュのケースを、伝記的な諸事実を含めてきわめて詳細に取り上げている。

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 キッテル、アルトハウス、ヒルシュはいずれも、一九世紀末に誕生し、それぞれテュービンゲン、エアランゲン、ゲッティンゲンといった当時のドイツの主要大学で長年教えた「聡明で尊敬に値する」大学教授であった。キッテルは、ユダヤ教の背景から新約聖書を研究した世界的に著明な聖書学者であった。アルトハウスは、当時のドイツ・ルター派の代表的神学者であった。かれは新約聖書の専門家でありつつ、同時に「ルター・ルネッサンス」の泰斗カール・ホルの後継者の旗頭として名声を博した。ヒルシュは、多少なりとも哲学的見地から近代批判を生涯の課題としたルター派の鋭利な神学者であった。

 これらの有能かつ卓越したプロテスタント神学者が、それ固有の民族主義的傾向のゆえに、国家社会主義者としてナチズムを直接間接に支持する歴史的役割を果たし、戦後、それぞれ占領軍によって投獄や辞職などの処罰や謹慎を余儀なくされたのであった。これら名声を博していた神学者であり研究者であった人々が、ヒトラーの推し進める反ユダヤ主義的政策および全体主義的政治の側に立つようになってしまった理由は、いったい何であったのか。この問いの究明こそ、まさに本書で著者エリクセンが引き受けようと試みた課題そのものであった。

 ここでは紙数の関係で、キッテル、アルトハウス、ヒルシュといった各神学者の個々のケースに関する著者の詳細な説明や議論を紹介する余裕はない。しかしながら、上記の問いに対する本書全体を通じてのエリクセンの回答は、概して以下の二点に要約されるであろう。第一にこれらのルター派の神学者たちは、第一次世界大戦後の「深刻な近代性の危機に直面していた」のであり、そうした変化のなかに「伝統的なキリスト教的・ドイツ的価値の解体」を見ていた。そしてかれらは、文明的な危機状況への応答として、とりわけ初期の段階においてナチズムを肯定的に捉え、ドイツ民族や文化の刷新およびキリスト教的道徳感や秩序感の再生を、ナチズムの展開に仮託した面があった。こうしてかれらは、ナチズムの魔性を十分に見抜くことはできなかったとされる。

 次にかれらの神学的立場や知的立場の影響というよりも、かれらのきわめてドイツ的かつ保守的な生活環境や社会環境が、かれらをして結局のところナチズムを支持せしめた第二の理由として挙げられている。この第二の理由こそ、本書の著者が一貫して主張している主要なテーゼでもあるともいえよう。かれらはドイツ中流階級出身で、保守的かつ宗教的な生活環境および愛国的な社会環境のなかで育った。エリクセンの説得力のある歴史的考証によれば、キッテル、アルトハウス、ヒルシュは、決して孤立した変人でも極端な人々でもなかった。すなわち、「かれらの結論は、ドイツにおける多くの教授、神学者、そして聖職者たちに共通したものであったにちがいない立場を代表している。……したがってこれら三人は、第三帝国下におけるドイツ共同体の重要な層を代表しており、彼らがヒトラーを評価したことは、主要な団体内においてナチス政府への忍従が一般的であったことを説明するものである」。

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 本書の貢献は諸種あるであろうが、ここでは二つばかり特記しておきたい。本書の第一の意義は、これまで十分に照射されてこなかったナチズムとキリスト教との癒着の一面を厳密に吟味考証した点にあろう。これまで第三帝国とキリスト教というテーマでは、つねに「告白教会」など、ナチズムに抵抗した少数のキリスト信徒や教会が取り上げられる傾向にあった。しかし、多くのキリスト信徒と教会は、とりわけ「何をしたか」というよりは「何をしなかったか」という面で、直接間接にナチズムの権力基盤を支持した面があった。キッテル、アルトハウス、ヒルシュなどの神学者たちは、そうした事態の象徴的存在であったことが理解できる。

 第二の貢献は、これらの神学者は、当時、尊敬を勝ち得ていた全うな人々であったのであり、それだけにナチズムは、それら多くの聡明な人々を魅了するだけの政治的ないし擬似宗教的エロースであり得た事実を、本書が浩瀚な資料や情報を元にして如実に伝えてくれている点にある。

 本書の議論への疑問として一点だけ補足しておきたい。エリクセンは、知的立場ないし神学的立場の相違が、ナチズムへの抵抗あるいは逆にそれへの支持を促す決定的要因ではあり得ないという議論をしているが、こうした認識にはやはり問題があろう。とりわけ、これら三人の神学者は、おしなべて保守的なルター派的な「創造の秩序」観、「二王国論」的前提、受動的政治観を抱懐していた。この点はとくに「告白教会」のバルメン宣言の神学的諸前提と比較した場合に著しいコントラストを示しており、かれらの神学的立場が、詰まるところナチズム支持の誘惑への一定の脆弱性を内包していたことは明らかである。さらにまた、歴史的にルター派神学が、ドイツのナショナリズムへの特有の甘さと弱さを有していたことは否定できない。そこでは「民族」が擬似宗教的実体として絶対化される危険性がつねに随伴していた。この点をさらに深く掘り下げ究明してほしかったというのは、必ずしも筆者の不当な無いものねだりではないと考える。

 しかし全体的にみるならば、本書の興味深い議論や視点の多くは、ナチズム研究一般に対しても、さらにナチズムと宗教というテーマに対しても、貴重な光を投じてくれている。



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