川本 隆史
(かわもと たかし 東北大学文学部教員・倫理学/社会哲学)
私の引っ越し初体験は、二十七年前、郷里の広島から東京の大学へ入学したときだった。キャンパス隣りの学生寮に入った私は、先輩が残した机を譲り受けたので、蒲団と衣類と数少ない愛読書だけを当時の鉄道手荷物便で送った。だから一九七〇年四月二日の上京は、愛用のギターにバッグ一つのみ。足りない日用品類は、父親が大きな振り分け荷物に詰め込んで自ら運搬してくれた。そんなささやかな出立だった。
寮生活のカルチャーショックは、先輩たちの本棚を見たことに始まる。書籍は読まずに傍に置いておくだけでも〈妖気〉を伝えてくれるという理屈の「ツンドクのすすめ」を真にうけた私は、書物崇拝症(フェティシズム)にたちまち感染した。何せ国立大学の年間授業料が一万二千円の時代だ。部屋代と朝晩の食費込みの寮費が、たしか月九千円だったから、切り詰めれば一カ月を一万五千円で暮らせた。収入は、日本育英会の特別奨学金八千円と家庭教師週二回で一万円。だから親からの仕送りは無くても、じゅうぶん自活できる。お金が入ると渋谷や吉祥寺の古書店を巡礼気分でまわり、購入した本で書架を埋めていくのが、まさしく法悦だった。
二度目は一九七四年の春、家庭教師先に居候するためにリヤカーで往復した。同年秋に駒場から池袋に転居した際も、サークルの後輩を動員してレンタカーで済ませた。大学院に進学して一年目の私とフィアンセ、彼女の弟、計三人分の荷物を池袋から東武練馬に移したときは、さすがに運送屋を頼んで、二トン車を出してもらった(七六年二月二九日)。私の大量の蔵書のせいで二時間の予定をはるかに超過して、皆をウンザリさせたものだった。それでも懲りずに本を買い続けた私である。博士課程に進んでからは洋書やコピー類も加わるが、四畳半の書斎と廊下の書棚にかろうじて収容できる冊数にとどめていた。かわいい盛りの長男・長女が本の帯を破ったり、クレヨンで落書するのも我慢のうち……。
一九八二年七月一七日、思い切って知人から購入した高島平の中古マンションに移る。この五回目の家移りは、事前の準備が功を奏してトラック二台ですんなり終わった。それ以来、高島平に暮らして十有余年。増え続ける書籍の一部は就職先の大学研究室に運び込んでいたけれども、やがて書斎も研究室もこの商売道具で満杯になった。ついに三年ほど前からは、廊下や食卓のまわりに本とコピーの山がいくつもでき始めた。「これぞ《超整理法》!」との言い訳も通用しないくらいの大パニックに陥りかけていた昨年の夏、東北大学文学部への転任の話が持ち上がる。爆発寸前の本を安置するスペースを確保し、新天地で心機一転したいとの思いから、私は仙台行きを承諾したわけなのだ。
ところが今年に入ってからは、残務整理と二冊目の自著(『ロールズ――正義の原理』講談社)の仕上げに忙殺されて、転勤の支度どころではなかった。やっと三月中旬になって、研究室と自宅書斎の荷物を一緒に運んでくれる業者を見つけた始末。三月二四日に専用の段ボールが届けられ、猛スピードで箱詰めを開始した。研究室の本・資料だけで一八〇箱、自宅の分が最小限の衣類も含めて一九〇箱になった。合計三七〇個の段ボールおよび大小一二組の本箱を四トントラックに満載したのが、三月三一日である。
翌四月一日、私は二人の息子と重要書類、壊れ物を積んだ乗用車で午前二時に高島平を出発し、東北大学川内キャンパスに着いたのが六時半だった。二時間後トラックが到着。こちらの助手・院生が一〇人ばかり手伝ってくれたので、研究室と宿舎への運び込みは二時間で終わり、辞令交付も無事済んだ。以来ひと月以上たった今も、段ボール三六〇箱分の本と資料はほとんど片付いていない。四半世紀に及ぶ東京での勉学の記念碑である私の蔵書――これが新たな空間を得た杜の都で、どれくらい増殖するのだろう。魔法を駆使して自分の殻をどんどん大きくしたカタツムリの末路を描いた文明批評の絵本、レオ・レオニの『せかいいちおおきなうち』(谷川俊太郎訳、好学社、一九六九年)の教訓を想起する。これからは身軽に生きようと自分に言い聞かせながら、でも本屋に行くとつい買ってしまう病気。これは六回の転地療法くらいでは治りそうもない。
書痴を自認する私だけれど、本を悪の権化に仕立てあげるつもりはない。「やっぱり本が好き!」という謳い文句ではないが、今回の引っ越し準備の最中に、書物がとりもつ世代を超えた人間の<つながり>を再認識させられた。私が贈った共訳書(マックス・シェーラー『知識形態と社会』上巻、白水社、一九七八年)と手紙に対する、新明正道(しんめい・まさみち 一八九八〜一九八四年)からの礼状が出てきたのだ。ご存じのように「新人会」出身の新明は、政治学から転じて東北大学の社会学研究室を主宰した人物で、永く日本の社会学界の重鎮だった。彼の旧著『知識社会学の諸相』に助けられながら、私はどうにか訳者解説をまとめた。その謝辞を述べたついでに、和辻倫理学が新明の「綜合社会学」に影響を与えたのではないかという勝手な憶測を私信で書き送っておいたのだ。彼からの返事には、昭和初年の東北帝大人事の秘話(?)まで綴られている。
「顧みますと、私は彼〔シェーラー〕と多少学問外でも因縁をもっているともいえそうです。私は一九二六年東北大学〔法〕文学部の……社会学の講義を担当することに成りましたが、当時の文学部ではドイツから哲学のヘリーゲル教授が来ており、その関係からか社会学議座が出来た時、シェーラーを呼ぶことに成り、一応彼も来日を承諾したとのことです。ところがその後彼はケルン大学教授となったので沙汰止みとなり……迂余曲折のあったあとで若輩の私が赴任することに成ったと聞きました。……数年後レーヴィットが哲学の教師として来任し、彼がまたシェーラーについて講義を致し、これを聴講したゆかりもあり……彼の哲学的方面の著作も割に多く買い集めることにも成りました。貴兄は倫理学御専攻の御由、和辻博士とは面識は無かったのですが……私の行為関聯の立場に博士から若干示唆を受けたことは事実です。貴兄がこのことも知っていられるのは驚きましたが、それだけ貴兄の御研究の大成を祈り上げたい気持がいたします。」
八〇歳の老大家が一介の大学院生に届けてくれた、懐古談と励ましの言葉。いま仙台の地で彼の達筆の文面を読み返すにつけ、《書物がつなぐ友愛の絆》がありありと見えてくる。好きな本を買って読み、影響を受けた同時代の著者とはできるだけコンタクトをとってきた一愛書家(ビブリオマニア)の、それが実感である。「科学者のコミュニティ」とか「コミュニケーションの共同体」といった難しい用語をふりかざす必要はない。
ところで《哄笑するエゴイスト》シュティルナー御大は、愛読者との絆ないし彼女/彼らからのフィードバック回路をどの程度自覚的にとり結んでいたのか、気になるところでもある。私と入れ違いに東北から東京に移った住吉雅美さんに、ぜひこの点を尋ねてみたい。
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