青年と老人とラディカリズム
 森 政稔 
(もり まさとし 東京大学大学院総合文化研究科助教授・政治思想)
思想史の正典(canon)からはみだしたひとつのテキスト。たしかにそれが書かれた時代や社会に結びつくものをもっていながら、どうしようもなくそこから浮き上がって見える思索の束。けっして大思想にはなりえないけれども、どこにもそのかわりがいないマイナーな思想。なぜそんなものを読むのかと始終自問自答することを余儀なくされ、「専門領域」という自明性の安心にゆだねられるのを許してはくれそうにないテキスト。一九世紀ドイツ、ヘーゲル亡き後の思想闘争の大混乱のなかから生じてきた、M・シュティルナーの『唯一者とその所有(Der Einzige und sein Eigentum, 1845)』はそんな思いと当惑を最大限に感じさせる書物である。

 住吉雅美さんの近著『哄笑するエゴイスト──マックス・シュティルナーの近代合理主義批判』は、誤解され遠ざけられがちなこの異色の思想家に徹底して論理的につきあった、日本ではもちろん、おそらく世界的にも希有な仕事というべきであろう。住吉さんの執着はシュティルナーの問いを現代によみがえらせる。たとえば私はシュティルナーのつぎのような表現に釘付けになる。

 「フィヒテが自我がすべてだ(Das Ich ist Alles)というとき、それは私の提言に完全に調和しているかのように見える。しかしながら、自我はすべてであるのではなくて、自我はすべてを破壊するのだ(Allein nicht das Ich ist Alles, sondern das Ich zerstört Alles)。そして自ら解体してゆく自我(das sich selbst auflösende Ich)、けっして存在するのではないような自我、終わりのある自我だけが、現実の自我なのだ。フィヒテは絶対的な自我について語ったが、私は私自身のこと、移ろいゆく自我(vergängliches Ich)のことを語っているのだ」(Reclam版、S. 199、片岡訳、下252頁)。

 シュティルナーがなぜこんなことを言うのか、私には長らくよくわからなかった。合理主義の批判はよくわかる。形而上学的根拠のない自己を想定したいというのも理解できる。しかしなぜ「唯一者」は自分自身を消費し尽くすだけなのか。それは何か自我の外部にある目的のために生きることを拒むだけでなく、たとえば古代ギリシアの英雄のように、名誉を与えられ共同体の物語のなかに名を残す、といった代償も求めようとはしない。

 このパッセージに関する住吉さんの解釈は、実に独創的でよく考えられたものである。シュティルナーは、「権威的真理や価値を自己から切り離し、それらを対象化してそれらとの厳しい問答を繰り返す」自律的で自己創造的な主体性を求めたのである。「移ろいゆく私は、自己の現実の生の過程の中で、各現時点の状況が指し示す次の状況への洞察と判断を自ら行い、……自ら全人格を厳しい吟味にさらし、改変してゆく。」それは思想史上、ジンメル的な流動的な生に結びつくものである。これらの解釈は、「軽佻浮薄な」自我論者、自暴自棄のニヒリストといった、ありきたりのシュティルナー像を覆すという意味において成功している、と思う。ただ私としては、そこまで「前向きに」シュティルナーを読む必要があるのかどうかが、よくわからない。シュティルナーにとって人間の生とはいったい何だったのだろう。

 教養を貯えるために、あるいは所有を蓄積するために生きるのではない。他者や次の世代のために生きるのでもない。ニーチェのようにありのままの人間をのり超えることにも関心は示されていない。彼にとって生とは自己享受(Selbstgenuss)のことであるが、自己享受とは生の消費(Verbrauch des Lebens)以外のなにものでもない。ロウソクに灯をともしてこれを利用することと同じだ、と彼は言う。ロウソクは短くなり、ついには消える。自分自身を消費しつくす彼方に人生の終わり、死が見える。生の感覚の直接的な享受のみが輝いている。ここに「老人の生」をみることは不当だろうか。

 一九世紀の思想史において、「老人」といえば、だれもがヘーゲルを連想する。しかし先に述べたのとは全く対照的な意味においてである。ヘーゲルが老人のイメージにふさわしいのは、その風貌のせいだけではない。有名なミネルヴァのふくろうの比喩や歴史哲学におけるゲルマン世界の位置付けは、いずれも老年の像を伴っている。ヘーゲルにあって特徴的なことは、彼が老いを一見その反対物にみえる進歩思想に結びつけたことである。近代を単にいわゆるデカルト的主観の時代と見ることは、少なくとも一面的である。一九世紀以後に本格的な近代が展開することになるが、安定した進歩が可能になるためには、先立つ歴史の成果を失うことなく保持し継承することが必要になる。進歩は実は保守的なモメントに依存し、それを包摂することで成り立っている。資本の蓄積、官僚制など組織の維持発展、個人の死を越えて永続する国家のナショナリズム、といった、一九世紀以降の近代を特徴づける関係のあり方は、いずれもこのような連続性に依拠している。


 進歩思想においては青年のラディカリズムが想定されるが、それにはいかがわしいところがある。青年はそれに先立つ世代が知らない、より進んだ考え方を持ち、かつそれらはただちに理解されないゆえに、社会に反抗し葛藤するが、やがて立派に自立して社会を指導していく、というような脚本がつくられる。「若者には明日がある」という賛辞が青年のラディカリズムをしばしば自己満足へと堕落させる。青年はラディカルな批判者の役を演じつつ、同時に次代の期待を先取りして老成していなければならない。一方、進歩する社会にあって、老人は安んじて老いることができない。日々変化する社会を把握していなければその居場所は安泰ではない。ヘーゲル学派の「青年」と「老人」への分裂は、ヘーゲルの切り開いた進歩思想の世代論的な困難を予言している。

 シュティルナーはこのような青年のラディカリズムを信じない。それは現実の生を直接に享受するかわりに、世界の背後に廻り込み、結局のところ世界を合理化し精神化する営みに手を貸すにすぎない。それにくらべれば、利害で判断する大人(Mann)のほうが、観念へと疎外された世界を自我へ取り戻すことだとして好意的に論じられる。しかし、住吉さんが力説されるように、シュティルナーはブルジョワ的な金銭欲、営利欲を軽蔑していた。それはもうひとつのとらわれであるほかはないのだから。それでは老人はどうなのか。シュティルナーは慎重に口を閉ざしている。「いずれそうなった暁に、たっぷりそれを論じる時があるだろう」と。


 いまや豊かな消費生活を自明のものとして生きてきた現代の青年たちに、当然のようにラディカリズムを期待することはできない。進歩思想の前提の説得力が失われている以上、それを嘆いたりするのは筋違いというものであろう。現代における新しい生き方のチャンスが、産業社会的な価値から距離をとることに求められるとするならば、産業社会の予備軍としてポストモダンの衣装で踊らされている青年たちよりも、産業社会から追われゆく老人の方にこそ、希望があってもおかしくはない。



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