牧野文夫著『招かれたプロメテウス──近代日本の技術発展』の刊行に寄せて
 南 亮進 
(一橋大学経済研究所教授)

著者の牧野文夫氏との出会いは、氏が大学院に入学し私のゼミ生となった二〇年前にさかのぼる。それ以来現在にいたるまで、公私ともども長いつきあいが続いているので、ここではあえて普段の呼び方の牧野君と呼ばせてもらおう。
 牧野君の大学院時代の研究テーマは、戦前の労働市場に関するものであった。本書の主題である技術に関連した研究は、大学院を卒業した後に着手された。綿織物業の力織機化に関する私と石井正氏(特許庁)との三人の共同研究が、そのスタートであったと言えるだろう。それ以来、牧野君は私との共同研究も含め、多くの優れた業績を学会誌などに精力的に発表してきた。今や経済史・経済発展と技術進歩に関する分野では、わが国を代表する研究者として活躍している。

 牧野君はそれら既発表の論文に新たに書き下ろした数編の論文を加え、一橋大学に学位請求論文『近代日本の技術発展――技術選択・普及の経済分析』を提出した(平成七年三月学位授与)。それが若干の改稿を施され、今回出版の運びとなった。私は同君が未だ大学院に在籍している時から、折をみて何回となく早く学位論文を堤出するようにと催促してきただけに、ようやくそれが実現しその上出版されることになり心よりうれしく思っている。
 さて本書の目的は、戦前日本におけるいくつかの産業を取り上げて、そこで近代技術が導入された後、いかにして在来産業との競合の中で全国に普及していったかを、経済理論の枠組みの中で計量的に分析することにある。すなわち、技術の普及とは、企業家がより高い利潤率を保証する技術を選択した結果であるというのが本書の基本的なアプローチである。このため著者は、選択可能な技術それぞれについて、その技術を装備した典型的な新設工場を想定し、各種統計資料から実際に利潤率を推計して分析している。

 本書は、八つの章から構成されている。第一章では、本書の研究対象と方法が提示されている。第二章から第七章までが、本論に当たる。それは大きく二つの部分に分けられる。すなわち、主要な産業の技術選択を取り上げた第二章から第五章までと、技術の普及についての第六・七章である。技術選択の分析対象となった産業は、織物業(二章)、内航海運業(三章)、製粉業(四章)、外航海運・造船業(五章)である。それぞれの章で、選択可能な代替技術を導入した時に得られるであろう総資本利潤率が推計され、それにもとづいて、当該産業でどのような技術が経済的に有利であったか、それをもたらした要因は何であったかなどが、具体的な歴史的事実と関連づけられて分析されている。また各産業の代替技術がどのように発生したかという点、すなわち技術の供給・開発面からの分析もなされている。第六章では農業技術の中から牛馬耕が例に挙げられ、その普及率の地域的差異や導入効果、過剰労働との関連などについて検討されている。第七章は、家計部門のエネルギー選択、在来エネルギー(薪炭)から近代エネルギー(電力・ガス・石炭)への転換の問題が分析村象となっている。本章では、鴎外、漱石、荷風などの小説・日記の中から例証が取り上げられたり、諸外国との生活水準などの比較がなされたり、単なる経済・技術の分析にとどまらず、社会史という観点からも興味深い内容となっている。最後の第八章では、戦前日本の技術発展のプロセスと特徴が、コンパクトではあるが極めて的確に要約されている。
 本書の特徴は以下の四点にまとめられるだろう。

 第一に、企業家の利潤率極大化原理にもとづく技術選択の理論に依拠し、いくつかの産業における技術発展の過程を計量的に分析している。具体的な産業についての技術発展は産業史および技術史の専門家による多くの研究があるが、本書はこれらの研究成果を利用しながらも、経済学の分析用具を用いることによって、より厳密な分析を可能にした。この試みは経済学の適応範囲を広げるとともに、産業史および技術史に対しても、新しい展開方向を開拓したものと言うことができよう。
 第二に、本書の分析と叙述は驚くほど丹念である。そこではそれぞれの産業の各種統計、社史、産業史・技術史の専門家による研究等、極めて多量の資料が渉猟され利用されている。こうして集められた原資料の中には、よくこのような資料を見つけ出したと、感心するようなものも少なくない。牧野君の資料収集に対する嗅覚力には、素直に敬意を表したい。しかも著者は一次資料を単に提示するにとどまらず、それを用いて分析内容により即した新たな統計系列を推計している。用いられた資料や加工方法は、本書の統計付録としてフローチャート入りで詳しく解説されており、読者にとって大いに参考になる。またその結果は、学界の共通財産として今後も広く利用されると信じる。

 第三に分析によって多くの興味ある結論、もしくは事実発見が導かれており、時に学界の通説に対する厳しい批判が行われている。たとえば通説によれば、明治農法に果たした牛馬耕の役割が高く評価されている。またわが国の経済がエネルギー節約的であったと主張されている。しかしこれらに対しては、著者は懐疑的な見解をとっている。本書に示された論証方法や資料をみていると、著者の批判が正鵠であることが理解されるだろう。
 第四に、本書は学位論文でありながらも、大変読みやすい内容である。専門的な技術に関わる説明も、専門外の人たちにも理解できるようにとの配慮で、できる限り平易な文章によって与えられている。著者が内容を十分把握していることは言うまでもないことであるが、同時にそれを読者と共有したいとする牧野君の熱意を感じる。

 以上のように本書は経済学、経済史、産業史、経営史、技術史にまたがる領域の接点にあたる学際的内容で、この分野に興味をもつ多くの人たちにとっての必読文献となるべきものである。また専門家が読まれることは言うまでもなく、大学院生や学部上級生のゼミテキストとしても大いに利用価値があるだろう。
 最後に本書のタイトルについて一言ふれておこう。学位請求論文として提出された時の本書のタイトルは、現在の副題にあたる『近代日本の技術発展』であった。しかし出版に際し、読者の眼を意識して現在の題名に改められたという。ご承知の方も多いと思うが、『招かれたプロメテウス』は、David Landesの大著The Unbound Prometheusを意識してつけられたものである。牧野君の心意気や大いによしとするべきであるが、書店でギリシャ文学のコーナーに置かれないよう祈っている。



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