来生 新
(横浜国立大学教授)
犬塚社長から突然のお電話で、「風のたより」に何か書けというお話がありました。私が書くと格調の高いこれまでの「風のたより」の雰囲気を台無しにするおそれがあるばかりではなく、風行社の本の売れ行きにも決してプラスにはならないと、最初はかたくお断りしました。ちなみに、「風のたより」第3号(本年二月一日)には、私の同僚の斉藤純一氏が「マイケル・ウォルツァーと複数性への感性」という一文を、また東京大学の折原浩教授が「理論的明晰と緻密な文献実証との結合――シュルフター氏の学風と人柄」を寄せられており、タイトルといい、内容といい、いかにも格調が高いと感ずるのは筆者だけではないでしょう。これが風行社趣味だと思います。
にもかかわらず、どうしても書けというご依頼で、よくよく考えれば私自身の評判はこれ以上落ちようもないし、評判ないしは売り上げを落として困るのは、風行社あるいは犬塚社長だからまァいいかと割り切って、ぜんぜん格調の高くない……文は人なりといいますから、仕方がないのですが……文章をまとめました。どうも精神の貴族の列の中にひとり道化が混じっているようで、気恥ずかしいのですが、王侯貴族の傍らに侍る奇形の道化には象徴的意味があるということのようですので、しばしのお目汚し。
マザーグースに「わたしが子供であったころ」という歌があります。岸田理生さんの訳(『マザーグースの絵本』新書館 一九七六年)で、その一番を紹介しますと、
わたしが子供であったころ わたしは知恵を持っていた
それはずいぶん前のこと それから毎日 日が過ぎて
だけどかしこくなりゃしない
これからどんなに生きたとしても もし死ぬ時になったとしても
わたしはかしこくならないだろう
長く生きれば生きるだけ わたしは馬鹿になっていく
という、ちょっと悲しいというか、人生のある側面を鋭くえぐる残酷な歌で、ダニエル・キースの『アルジャノンに花束を』は、この歌にヒントをえたのではないかとも思われるのですが、違うか。
で、この歌が拙文のサブ・タイトルにつながるわけであります。どうつながるかは読んでみてのお楽しみですが、読者諸兄諸姉に対して若干の自己紹介をしておきますと、私の専門は経済法といわれる領域で、「持株会社の解禁」問題などで最近話題の独占禁止法の研究はその主要な部分です。商売柄、法律学の側から対岸の経済学の状況を眺めたり、時には、虎の威を借りる狐で、向こう岸の経済学者の眼鏡を借用して法律の解釈論を工夫したりする、といったことを日々の生活の糧としています。
この分野での最近の話題で比較的はやりのものをあげると、アメリカで非常に活発なlaw and economicsの手法を日本の独占禁止法研究にどう使うかとか、それに関連して、産業組織論の分野でも、ちょっと前のシカゴ学派とハーバード学派の対立などというとらえ方は古くて、今は新産業組織論New Industrial Organizationの時代だなどといったことがさまざまに議論されているわけです。これらの議論の特徴は、ゲーム理論等を活用して論理的に非常に厳密な精緻な構造を持つ形で展開されていること、理論的な分析を目的とする経済モデルの構築そのものを目指すのではなく、価値判断と実践の作業である裁判ないしは法の解釈・運用、あるいは現実の政策決定に影響を与えることを指向する傾向を強く持つものになっているということだ、といっていいように思います。
独占祭止法はもとより経済学とは深い関わりを持つもので、日本の独占禁止法の母国であるアメリカでは、一九三〇年代の中葉から価格理論を反トラスト法の執行に利用可能なものにする試みがなされ、それが今日の新産業組織論にまでつながる大きな研究の流れを形成してきました。これに対して、日本では一九七〇年代初頭までマルクス主義経済学の影響が圧倒的に強かったこともあり、経済学の解釈論に対する影響は、搾取者である独占と経済的弱者である消費者・中小企業の対立という経済構造の理解と、両者の実質的平等を実現する国家の積極的な介入の必要性の主張という、社会法としての独占禁止法理解に強く現れてきたということができます。このような議論で前提とされる市場は、史的唯物論の論理を徹底するならば、やがて生産手段の社会的所有へ移行する一過程としての市場であり、やがて実現するはずの労働者階級の正義の体現者としての政府との比較において、私利・私欲の追求に走る独占の搾取と横暴を許す弱肉強食の場としての市場でありました。そこには価格理論的な市場観(競争観)――自由な試みと自発的選択の場、ないしは効率性と自由の積極的肯定という価値判断――が入る余地がなかったことは明白です。このような社会法的な独占禁止法理解は、法律の世界では、今日でも相当多数の支持を得ています。
社会法的な独占禁止法理解に組みしない場合には、従来の学説は、独占禁止法の法的に表明された価値である「公正かつ自由な競争」の概念の解釈を、資源配分の効率性といった経済学的な議論には特に関連させず、法律独自の価値をもつものとして構成するという態度をとりました。しかし、その場合でも、時代の制約というべきでしょうか、自由の価値を徹底して解釈の前面に出すという発想は生じませんでした。このような考え方の内部では、一方で、独占段階の資本主義は政府の強い監督の下におかれてはじめて十分に機能しうるという、社会法的な理解と基盤を同一にする私企業への不信と政府への信頼が存在し、他方では、無自覚なままに、それだけに必然的に恣意的になるのですが、法解釈のうちに価格理論の完全競争モデルの条件を部分的に取り入れるという作業が行われました。
このような通説の状況を批判的にとらえ、意識的に価格理論との関連をつけて独占禁止法の解釈を行う必要があると考えて、私は独占禁止法の研究を始めました。たまたま経済学部に所属して、周りに優秀な経済学者がたくさんいましたので、彼らとの議論を通じてある程度はこのような方向の議論をすることができたと思っています。
しかし、このごろになって、独占禁止法の解釈を均衡状態の静態分析である価格理論と密接に関連させることに素朴な疑問を持ち、かつて抱いていた確信が揺らぎつつあるというのが、だんだん馬鹿になっていくというサブタイトルに込めた自己反省なのであります。もちろん、いまさら一九の春に戻ろうということではないのですが、最近の新産業組織論等の議論は、乱暴な要約が許されるとすれば、厳格な条件を設定したモデルの上で、ある条件が満たされれば、過去においては資源配分のロスを生じさせると考えられていた経済主体の行為が、むしろ資源配分を効率的にする可能性を持つことを証明することに喜々とする傾向が顕著であるように思われます。
経済学としてはそれで何の問題もないのだと思います。ただ、そのような議論の経済学的な評価と、現実のできごとに価値判断を下す作業である法解釈にそれを利用することの間には、相当に深くて暗い川が流れている、との感が強いということです。われわれが市場の制度に頼らねばならないのは、われわれの誰も社会にとって何が最適かを判断することができないからだ、というハイエクの言葉が思い出されてなりません。マーフィの法則には、複雑すぎるオペレーションは必ず失敗するという命題があります。
だんだん馬鹿になりつつある私としては、現実の学問の進歩に追いつけなくなりつつあることもあって、ここは一番、むしろ非常に単純に、無知の知を強調して、それ故の自由の意義を徹底的に重視するような、それでいて結果的には価格理論の美しい体系にうまく調和するような、そんな都合のいい議論を展開できないかと日々夢想しているというわけであります。で、その夢の一部は、風行社から出していただいている『論争独占禁止法』(一九九四年)に、まさに通説との論争の形でまとめてありますので、そんなことを遠い旅の空で風のたよりに聞かれたみなさんに、是非是非ご購入をいただき、ご一読をお願いしたいと、これが言いたくてここまで引っ張ってきました。
この宣伝が犬塚社長との約束でありまして、みなさんごめんなさい、といって終わります。
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