ヴェーバーと対決するシュルフター
  ──「神に疎遠な時代」における宗教への憧憬
 古川 順一 
(ふるかわじゅんいち 日本文理大学構師)

私はシュルフターを個人的に知っているわけでもないし、彼の作品を丹念にフォローしてさえいないので、こうしたエッセイを認めるのには全くふさわしくない人物であると自認している。しかし、であればこそ気軽に(といっては読者にお叱りを受けるであろうが)、全く自己の観点と関心に従い、シュルフターの新著『宗教と生活態度』についての雑感を述べることも可能になるのかもしれないと思い、恥を曝すのを承知でこの大役を引き受けた次第である。
 シュルフターのヴェーバーに対するやり方は、彼自身述べているように、「ヴェーバーに依拠しつつヴェーバーと対決する」ことにより、「ヴェーバーを超える」というものではないだろうか。この姿勢は一貫していると思う。これがまた、シュルフターに引きつけられる人々と逆に反発を覚える人々を生み出す一因でもあろう。正直いって私も『現世支配の合理主義』や『近代合理主義の成立』における、進化論を部分的とはいえ受容する態度には、ヴェーバー読みの端くれとして違和感を覚えざるを得なかった(といってもいくつかの書評を読んだにすぎなかったが)。それ以来私はシュルフターの食わず嫌いになってしまった。ただし自分でちゃんと読んだ(といってもこれまた翻訳でにすぎないが)「価値自由と責任倫理」(『現世支配の合理主義』所収)だけには深い感銘を受けた。しかし、この論文に対しても何かもう一つ釈然としないものを感じていた。おそらくその理由は今から考えると次の点にあったと思う。つまり、シュルフターがヴェーバーの近代社会に対する診断──われわれは脱呪術化された「神に疎遠な時代に生きている──を受け入れつつも、治療剤として、あまりにも迷うことなく、価値自由に基づく責任倫理を提示していると私には感じられたことである。結論自体は決してヴェーバーの立場と異なるものではないし、むしろそれをさらに首尾一貫させたものであるとさえいえるのだが、この首尾一貫性に逆に何かちょっと引っかかるものを感じたのであった。つまり何といったらいいか、そう簡単にヴェーバーを超えてくれるなよ、自分はヴェーバーというデーモンと格闘して気も狂わんばかりになっているのに、と思ったのである。内田義彦がヴェーバーに疎遠になった理由が、ヴェーバーのしんどさであったとすれば、その当のしんどさが私をヴェーバーに引きつけるものであった。私はニーチェとともにいえば、「美しくなり得るために、多くを悩まざるを得ない」というのが好きである。なのにシュルフターは何とたやすく、悩むことなくヴェーバーを超えてしまうものよ、と思ったのである。こうして私は完全にシュルフターに疎遠になってしまった。
 その不幸な最初の出会いからおよそ十年近く経って、再びシュルフターとの出会いがやってきた。論文をまとめるために、シュルフターのヴェーバー作品史を紐解く必要に迫られたのである。そして『ヴェーバーの再検討』(これは『宗教と生活態度』所収の論文と一部対応している)に収録されている「経済と社会」、「宗教社会学」を読んだ。これらは、シュルフターが述べているように、ヴェーバーの精神の核心に達するために必要な条件の一つである作品史の必読文献である。しかしその際私の目に留まったのは、「神々の闘争」という論文であった。シュルフターには全く失礼ないい方であるが、単に技術的必要からしかたなく再びシュルフターに向かわざるを得なかった私であったが、この論文に出会えて本当によかったと思った。また、この小論を書くに当たり、もう一度この本を読み直し、「宗教の未来」という論文にも共感を覚えた。以下、特にこの二つの論文を読んで考えた雑感を述べてみたいと思う(引用は『宗教と生活態度』から行う)。
 ここでもまた、シュルフターの「ヴェーバーに依拠しつつヴェーバーと対決する」姿勢は一貫して貫かれている。ただし、以前のシュルフターの戦略とは異なり、ここではヴェーバーをさらに(シュルフターが望ましいと考える方向に)進化発展させるのではなく、ヴェーバーが躊躇し留まったまさにその地点を徹底的に掘り下げてみるという方法が選びとられていると思う。それは、「神に疎遠で予言者なき時代」における宗教(西洋キリスト教)の可能性という問題である。ヴェーバーは、脱呪術化、合理化を「われわれの時代の運命」とみなした。これは社会が分化され、生の諸領域、価値の諸領域がそれぞれの固有法則性に従い、「神々の闘争」を繰り広げることを意味する。この結果、宗教も一つの生の領域に過ぎなくなってしまう。全体的な世界像の提示こそが宗教の固有の課題であるとすれば、この脱呪術化という生の現実は、宗教(とりわけこの脱呪術化をもたらした禁欲的プロテスタンティズム)から少なくとも全社会的な衝撃カを奪い去ってしまった、というのがヴェーバーの時代診断であった。さらにシュルフターは、この絶対的多神論、価値対立の世界がもたらす既成宗教の脱政治化と私事化を、(これもまたゼクテの登場とともに始まったプロセスである)宗教多元主義の発展が強化すると論じ、宗教の未来を悲観する。なぜならば、他の宗教とのコミュニケーションの可能性は、自分の神のみが唯一絶対で、他の宗教の神は悪魔であると主張しづらい情況をもたらすからである。かくて宗教は、宗教領域内部においてすら分化し、相対化せざるを得ないというのである。
 ヴェーバーは現代に生きるわれわれに比して、この宗教多元主義の世界をまだ現実のものとしては知らなかった。しかし、シュルフター以上に西洋キリスト教を相対化し、その可能性をペシミスティックに考えていた。それは自らの個人的な資質に対するヴェーバー自身の判断に基づくところが大きいように思う。つまり、自分には宗教的な音感が備わっていないという自己認識である。従ってヴェーバーは、「知性の犠牲」という行為が信仰における一つの英雄的・達人的な行為であることを認めつつも、これを行うことをしなかった。いやこの価値を選び取ることができなかったのである。ヴェーバーは、いわゆる『経済と社会』第二部の「宗教社会学」の中で、文字通りの啓示の告白が持つ社会的衝撃力の可能性を論じていた。しかも単に過去の出来事としてではなく、彼の生きていた時代の可能性としてである。それにもかかわらず、ヴェーバーは、むしろ「神々の闘争」をポジティヴに受けとめて、それを自己の理想を「自分の胸の内から」引き出す格好の舞台と考えた。そして自らの知と力にのみより頼んで、これらの神々(宗教をも含めて)に抗する道を選んだ。これはシュルフターも認めているように、完全に「人間中心主義」的な「悲劇的、それゆえ英雄的な個人主義」の道である。これは古代ギリシア (あるいは古代オリエント)的なプロネーシス(実践知)を自らの究極の価値(ヴェーバー自身は自己の究極の価値などないと述べているが)とする生き方であるといえよう。
 これに対し、シュルフターは、ある意味でヴェーバー以上に資本主義と官僚制化という隷従の外枠の未来に絶望しつつも、「神中心主義」的な宗教(西洋キリスト教)のメシア性に賭けようとしている。いや少なくともその選択肢をヴェーバー以上に鮮明に提示しているといえる。これは彼の宗教的音感の獲得を意味するのであろうか、それとも現代社会に対する絶望の深まりを意味するのであろうか? 少なくとも以前の価値自由に基づく責任倫理を強調し、「人間中心主義」の立場をとるシュルフターにはみられなかった観点であるには違いない。これはヴェーバーと時代診断を共有しながらも、宗教の可能性をなおも信じようとしてヴェーバーと格闘したトレルチの姿勢とも似ている。しかしそれよりはもっと醒めた、宗教に対する一つの憧憬であるように思われる。いずれにせよ、ヴェーバーに内在しつつ、ヴェーバーを超え出ようとする試みは、こうした時代の運命にもかかわらず、ヴェーバーの宗教診断や生き方を超え得る宗教の可能性という問題を避けて通ることはできないと思われる。またそれが要請されているとさえいえる。なぜならば、ヴェーバーを敬慕してやまなかったヤスパースですら最後には彼に対して絶望せざるを得なかったように、ヴェーバーに依拠してはわれわれは首尾一貫して生きることができないからである。いや少なくとも死の意味を見いだすことができないからである。シュルフターの『宗教と生活態度』は、こうした思考へと私を誘ってくれた。〔ただし、ヴェーバーが最も敬意を払ったキリスト教は、シュルフターのようなたんなる宗教への憧憬ではなかった。それは、古くからの聖書のことばへの信仰であった。ヴェーバーと対決する唯一の姿勢も、この信仰にかかってくるであろう。(03.10.14追記)〕



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