シュルフターの「中間考察」理解の若干の側面について |
- 雀部 幸隆
(ささべゆきたか 椙山女学園大学教授)
- 現代は、(一)「神とは疎遠で預言者のいない時代」(eine gottfremde und prophetenlose Zeit)であり、(二)「神々」の「復活」と「闘争」の時代であり、(三)しかもその「神々」もそれぞれ固有の「ディレンマ」に陥っている時代である。現代ヨーロッパの精神史的情況にたいするヴェーバーの診断を、誤解を恐れずに敢えて単純化し、またシンボリックな表現で言い表すなら、こう要約できるだろう。シュルフターはその点どう見ているか。
いきなり本題に入って恐縮であるが、紙幅が限られていることでもあるから、読者諸賢には、単刀直入、簡明直截に話をすすめることをお許し願いたい(なお右の要約に関する筆者自身の見解については、くわしくは拙著『知と意味の位相──ウェーバー思想世界への序論』、恒星社厚生閣、一九九三年、の第五章・第六章、ならびにデートレフ・ポイカート著『ウェーバー 近代への診断』、名古屋大学出版会、一九九四年、の巻末に付した筆者の訳者解説「運命としてのモデルネ──ポイカートのウェーバー論」を参照願えれば幸いである)。
(1)だが、一体どうしてそんなことが問題になるのか。その点を理解していただくためには、まず現代へのヴェーバーの情況診断を表すものとして、筆者がこともなげに右に提示した要約そのものがそもそも問題を含んでいるということから、説明を始めなければならない。というのも、右の要約のうち(一)と(二)とは、現代の精神史的情況にたいするヴェーバーの診断としてヴェーバー研究者のだれもが一致して認める論点だが、(三)に言及する論者、すくなくともその論点を自覚的に取り上げる論者は、ほとんど皆無といってもよいからである。
だが私見によれば、(A)この論点は、(一) (二)に劣らず、いやある意味ではそれ以上に重要で深刻なインプリケーションをもった論点であり、その論点を踏まえることなしに、つまりヴェーバーが復活した「神々」自身がそれぞれ固有のディレンマをかかえているのを見きわめているという事態を十分考量することなしに、実は現代の精神史的問題情況にたいするヴェーバーのスタンスを窺い知ることができないはずのものなのである。(B)にもかかわらず、従来のほとんどのヴェーバー研究者が (一)(二)の常套的定式を繰り返すばかりで、(三)の論点の深刻な含意を──すくなくとも意識的には──汲み取ろうとはしないなかにあって、シュルフターはその問題の所在に刮目する数少ない研究者の一人である。すくなくともその点からしても、シュルフターは、筆者にとって大いに注目すべき、また多くを学ぶことのできるすぐれた研究者である。(C)ただし、この(三)の論点を(も)踏まえてヴェーバーの究極的なスタンスをどう見るかに関しては、(三)の論点の踏まえ方の相違もあって、筆者は、「ヴェーバーは価値に対して敏感で悲劇的な、だからまた英雄的な個人主義の人生観と生活態度とをみずからのものとして選び取った」というシュルフターの見方、とくにその後段の部分に(Schluchter, Religion und Lebensführung, Bd. 1, stw961, S.362.邦訳、風行社版『ヴェーバーの再検討』一一二ページ。対応する邦訳は右の原著に収録される以前のハイデルベルク大学神学部での著者の講義要綱を元にしており若干異なる。以下同じ)、かならずしも同意するものではない(筆者の見方は前掲拙著最終章を参照されたい)。が、ここでは紙数の関係から(C)の論点は割愛し、(A)(B)の論点に焦点をしぼって、若干の私見を述べよう。
(2)まず(三)の論点の内容をヴェーバーに即して示しておこう。テクストは端的にいって「中間考察」である。周知のように「中間考察」は、救済宗教と経済・政治・芸術・性愛・(純世俗内的)知性といった宗教外の生の諸領域とのあいだの緊張と対立とがとりわけ現代において激化するさまを詳しく跡づけている。そのうち経済は別にして、政治・芸術・性愛・知性は、合理的なものであるか非合理的なものであるかはともかく、現世内的救済の機能を積極的に担いうる──だからそれらのものは新たな「神々」である──ものであるがゆえに、救済宗教との競合・緊張・対立の関係がとりわけ深刻な様相を呈しうる。これがいわゆる「神々の闘争」なのだが──ただし宗教以外の生の諸領域相互の間の緊張と対立とには、ヴェーバーは踏み込んでいない──、「中間考察」は、この誰もが口にする「神々の闘争」を浮き彫りにしているだけでなく、現代において唯一かつ大文字の「神」の退場とともに生の舞台の前面に踊り出た「神々」がそれぞれ固有のディレンマをかかえている有様を、これ以上はまたとないと思えるほどの鋭利な筆致でえぐり出しているのである。ただ、その論旨展開は、しばしば救済宗教──象徴的に言って「神」──の観点からする「神々」の非友愛性・獣性(動物には申し訳ない言い方だが)剔抉の文脈、だからまた(ニュートラルに言って)「神々の闘争」を指摘する文脈と重なり合い、もつれ合う形で展開されているので、なかなかそれとして掴み出しにくい嫌いは確かにある。その点は「政治」の領域、「美」の領域で著しい。しかし「性愛」の領域、ことに「知」の領域(これは現世内的文化的救済を総括するものでもある)にいたると、たんに「神々の闘争」ばかりか「神々それ自体のディレンマ」の問題にヴェーバーが論歩を進めていることは、もはや見紛いようがなくなる。
ヴェーバーが、性的法悦のなかで互いに「汝の消滅」──愛による真の人間的結合、根源的な自然的生への還帰──をめざしながら、往々にして「汝の魂」のひそやかな「凌辱」、ひそやかであるだけにそれだけ一層「酷薄」な「凌辱」に結果すると述べているくだりは、明らかに「エロースによる現世内的救済」それ自体のディレンマを述べたものだし、さらに決定的には「知的領域」の後のほうで、かれが「死」の無意味性という呪いを受けた現代人の文化的「自己完成」目標の内的挫折を指摘しているところは、生内在的・現世内在的な「神々」による救済のディレンマないし袋小路を、それ自体の基準に照らして──だから救済宗教の目を交錯させるのではなく──端的に総括したものとして、印象ぶかい。このモチーフは『職業としての学問』にも出てくるが、「中間考察」の叙述のほうが迫力がある。ヴェーバーは述べている。「文化価値」の獲得ないし創造をめざして「自己完成」を遂げようとする「現代の教養人」にあって、「自己完成」の目標は霊的にも質的にも無際限だが、その作業が「ちょうどかれの死という『偶然の』時点で、かれにとって<意味ある>結末を迎える何の保証もない」と(MWG1/19, S.518f.みすず書房版『宗教社会学論選』一五九ページ以下、強調は原文)。
(3)ところで実はシュルフターも、この「神々のディレンマ」が「中間考察」の独自なモチーフをなすことを明確に意識しているわけではない。そのモチーフが「神々の闘争」のモチーフと重なり合いながら、やがて独自なものとしてはっきり姿を表すさまを、かれもまた明瞭適切に聞き分けてはいないように見える。だからかれも、管見の限りでは、「エロースによる救済」のディレンマには触れていないのである(むろんそれに触れないことは、たんなるSchicklichkeitの問題ではない)。にもかかわらずシュルフターは、「死」という偶発的出来事、「限界経験」(ポイカート)に直面して、生内在的・文化内在的に「自己完成」を遂げようとする現代文化人の営為が挫折し無意味性の呪いを受けるという、『職業としての学問』にも「中間考察」にも出てくるヴェーバーの指摘が、一種異様な重苦しさをもってわれわれに迫ってくる事実を、真正面から受け止めている。そして、その指摘をみずからのライト・モチーフとして、かれはReligion und Lebensführung第一巻所収の「神々の闘争」の章ならびに第二巻所収の「宗教の将来」の章を書いているのである(日本語ではそれぞれ前掲邦訳の第三章および第六章として収められている)。その証拠として、ここでは「神々の闘争」の章の結論部分でシュルフターが述べているところを引照しておこう。
「生内在的な意味解釈の限界は、ほかならぬヴェーバーの極めて鋭く意識するところであった。ヴェーバーがその作品の各所で、死は生内在的に意味ある仕方で解釈できるかどうかを問題にしているのは、偶然ではないのである。」そしてシュルフターは、ヴェーバー自身はその問題にたいして一義的な解答を与えなかったが、としながら(私見は異なる)、その問題にたいする有意味な解答を与えたものとして、ピーター・ノルのつぎの文章を紹介している。「生は神なしにも無意味なものとはなるまいが、多分死はそうではないだろう。たしかに死にたいしてともかく主観的に意味を与えるような神の代用品は存在する。祖国、革命の将来、不断の進歩などがそうである。しかし、そうした神の代用品はいずれも短命で近視眼的であり、歴史的なものに固有の無常性をまぬがれない。」(Ibid., Bd. 1, S.361.前掲邦訳一一〇ページ以下)
- この論旨の展開の仕方は、著者が、あの「機械的な化石化」云々という『倫理』論文末尾のヴェーバーの不吉な未来の選択肢がもし避けようもないとすれば、「そのとき人は──たといかれが宗教的に音痴だとしても──宗教にたいして未来の救世主としての役割を果たすことを願うべきであるかも知れない」と記したReligion und Lebensführung第二巻「宗教の将来」の章の文字どおりの結語(Ibd., Bd. 2, S.534.前掲邦訳二三一ページ)と考え併せるなら、ウェーバーから触発を受けてシュルフターが今日どんな精神的場位に立っているかを窺う上で、示唆的といわねばならない。
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