非同盟運動の行方 |
- 鹿島 正裕
(金沢大学法学部教授)
- 私事で恐縮だが、私は大学院時代、ハンガリーを中心に東欧社会主義諸国の研究をしていた。一九七五年秋、ハンガリー留学から戻ると、指導教官の菊池昌典先生から一冊の書物の翻訳を勧められた。それは、当時先生が毎年のように訪れていたユーゴスラビアの、元外交官で研究者レオ・マテス氏による「非同盟――理論と現在の政策」というもので、セルボ・クロアチア語版が一九七一年、著者自身による英語版が翌年に刊行されていた。セルボ・クロアチア語はハンガリー語と全く異なる言語で、私は解しなかったが、英語版から訳せばよい、出版社も当てがある、とのこと。私が学部時代にあるスカラシップをえて米国に一年弱留学したことがあり、英語が得意なのと、当時すでに妻子を抱えて、育英会の奨学金だけではとうてい暮らせないので別の収入源を探していたことをご存知の先生が、私にとって、勉強にもなる一石二鳥の仕事を与えてくださったのである。
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とはいっても、印税が入るのはずいぶん先の話であるから、結局平凡社の『国民百科事典』の編集を手伝う仕事を見つけた(風行社の犬塚満氏には、その時知遇をえた)。そしてハンガリー研究を進めるかたわら、毎晩一−二ページずつ翻訳をして、一年ほどで成稿をえたように記憶している。非同盟運動についてはそれまで特に研究していなかったが、訳者あとがきで本書を紹介するために、邦語文献を調べたところ、それまで若干の論文以外まとまった書物がないことがわかり、訳書出版の意義の大きさを感じた。実際、七七年二月にTBSブリタニカ社から『非同盟の論理 第三世界の戦後史』と題して刊行したところ、三大新聞の書評欄でとりあげられるなどかなりの反響があり、四三四ページもの学術書としてはわりあいによく売れた。
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私自身は、その後非同盟運動をさらに研究することはなかったが、その頃から日本人による研究書が現われ始めた。もっとも最近のものが、風行社で昨年刊行された定形衛氏の『非同盟外交とユーゴスラヴィアの終焉』である。側聞するところによると、氏が大学院に入学したのが七七年であり、ちょうど出たばかりの『非同盟の論理』を読んで刺戟を受け、ユーゴスラビアの非同盟外交研究を志すようになったとのこと。拙訳書がある人の人生を大きく左右したわけだから、言論・出版に携わる者の責任を感じさせられる(私自身の著書でそうした話が耳に入ってこないのは残念であるけれど)。
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マテス氏の著書は、もちろんユーゴスラビアの動きに詳しいけれども、邦語版副題としたように、非同盟運動を中心とする「第三世界の戦後史」的なものであった。原書が出たあと第一次石油危機が起こり、OPECに集う石油輸出国を先頭に第三世界が先進世界を揺さぶっていた時期に訳書が刊行されたので、関心を集めたのであろう。それに対して、定形氏の著書は、ユーゴスラビアと非同盟運動の関わり、それぞれが互いにとって重大な意味をもっていたことを論じたものである。ユーゴスラビアが解体してしまい、非同盟運動もまた、冷戦の終焉によって存在意義が問われている現状ゆえか、それほど注目されていないようなのは残念である。
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ユーゴスラビアの場合、今では周知のこととなったが、内部にセルビア人と他の少数民族諸集団との対立を潜在させていた。セルビアの「大国主義」に各民族集団の平等主義を対置させることが、国際社会で大国の支配に反対し、発展途上諸国が団結して主権の平等を認めさせようとすることに通じていた。しかし、国際社会は米ソの二極支配だったから、両者の対立を利用して非同盟諸国が自己主張をなす余地があったけれども、ユーゴスラビア内部は共産党の一極支配であり、各民族集団の自己主張は全く抑圧されていた。したがって、経済的不振から共産党支配の正当性が崩れ(経済的不振は、ソ連や他の東欧諸国よりユーゴスラビアではむしろ先に、一九八六年以降の高率インフレーションとして現れていた)、複数政党制が導入されるや、一挙に各民族集団のナショナリズム(あるいはエスノ・ナショナリズム)が噴出して、連邦を破壊するに至ったのである。
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ボスニア内戦の帰すうはまだはっきりしないけれども、今やクロアチアやスロベニアは西欧寄り、セルビアを中心とする新ユーゴスラビアはロシア寄りの姿勢が明らかだ。西欧とロシアが以前のように対立しているわけではないが、ナショナリズムを剥き出しにし、「民族浄化」の蛮行をなしたクロアチアや新ユーゴスラビアは、もはや非同盟運動の指導権をとりえまい。非同盟運動は、もともとユーゴスラビアのチトーとインドのネルー、エジプトのナーセルが中心になって発足させたものであったが、三指導者はとうに世を去った。三国中、エジプトは一九七九年にイスラエルと単独講和して、アラブ連盟から追放されて以後指導力を失った。ユーゴスラビアは八〇年のチトー没後、連邦構成共和国輪番制の集団指導体制をとり、強力な指導者をもたなかったが、それが国内的にも連邦の解体を促したようだ。インドも、ガンジー母子が相次いで暗殺され、強力な指導者を欠くに至った。拙訳書刊行当時は、これら三国に加えてカストロのキューバやブーメディエンのアルジェリアが、非同盟運動の指導を分担するようになっていたが、この両国も昨今は内政危機と外交的孤立に悩んでいる。指導的国家・人物を欠く非同盟運動は、もはや歴史的使命を終え、幕引きの時を迎えているのだろうか。
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そもそも、非同盟運動の歴史的使命とは何だったろう。一九六〇年代始めの発足時には、米ソ対決による核戦争への危機感や、新興諸国が米ソのいずれにも依存せず国作りを進めようとする意欲から、冷戦に反対することが主目的であった。しかし、キューバ危機後部分的核実験停止条約で緊張が緩和してくると、残存植民地の解放が主たる関心事となり、反帝国主義の主張が強まってくる。七〇年代半ばには、ベトナム戦争が終結し、ポルトガルのアフリカ植民地も独立して反帝国主義運動はほぼ目的を達した。一方、前述の石油危機・原油価格高騰で発展途上国の発言力が増したので、南北問題解決のための「新国際経済秩序」作りが運動の重要な目標となってきた。すなわち、政治的運動としてはほぼ目的を達し、経済的地位改善運動として、国連貿易開発会議にかかる「七七か国グループ」の活動と重なる性格をもつようになっていたのである。
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他方、一九七〇年代半ば以降の先進工業世界の不況は、エネルギー価格高騰に対応する技術革新を促した。それによって北米・日本・西欧が再浮上し、東・東南アジアの新興工業諸国が躍進する一方、ソ連・東欧の社会主義諸国及び保護主義的発展途上国は取り残されてしまった。OPEC諸国も、まさに石油成金ゆえに工業化努力を怠り、八〇年代半ばに原油価格が低落するや債務国へと転落した。こうして、八〇年代後半には、再び先進工業世界の指導権が強まり、発展途上世界は新興工業諸国と工業化不調諸国とに分化して団結を弱めた。さらに、ソ連・東欧社会主義体制崩壊によって、反帝国主義勢力は、物質的にも思想的にも支えを失ったのである。
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しかし、自由主義的資本主義・貿易体制は、発展途上世界すべてを救うことはできまい。人口爆発と環境破壊で、その多くの地域、とりわけアフリカや南アジアでは、明るい未来を期待できない。ますます不足する土地や水、その他の資源を争う内戦や戦争、また大規模な飢饉が起こるだろうし、他地域の国々もそれを制止したり救援する余裕・能力をなくしている可能性が大きい。そうならないためには、国連がより積極的役割を果たすことが必要だが、そこではたとえ現在検討中の改革が実現しても、やはり財政貢献度の高い先進工業諸国の発言力が大きいだろう。したがって、経済力の乏しい、しかし数では圧倒的に多い発展途上諸国が集まって、団結の力で先進諸国に要求を突きつけていく仕組みは、今後むしろいっそう必要になってくるだろう。非同盟運動は、前述のようにそのような性格をもっていたし、ますますそれを強めて存在意義を保っていくのではなかろうか。
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