我が身を揺るがされ、また勇気づけられ……
  ──M・ウォルツァー『解釈としての社会批判』について
 山口 晃 
(駒沢大学講師)

 学生や仕事をしている人々が、お金を払って社会科学の本を買い、その本を読むことで時間を過すというのはどういうことなのだろうか。学者でない人々が、それにもかかわらず社会科学の本に手をふれ、思索を深めたいと思う、その心の深いところにある想いは何なのだろうか。研究者ではなく、それでいてずっと社会科学の本の愛読者である私には、どうしてもこういう問いが出てきてしまいます。そして長年の間に、多少へそ曲りな尺度で、個々の社会科学の本を評価するようになりました。たとえば、民俗学の或る種の本には、その語り口、着想を思いつくまでの経緯(いきさつ)、論旨の展開の仕方などに、著者と読者の間で、一つの毯(まり)を交互に蹴り合っているような気持にさせる本があります。こういう本は読者に、自分も今いるこの場所で、過去から現在にいたる社会を自分の眼で確認していこうという励ましを与えてくれます。それと対照的に、視界が非常に広く、引用も普通の人々には手の届かないような、努力と時間のかかるものであり、読者を刺激しかつ圧倒する本もあります。社会科学の本の愛読者として、私は後者の、いわば知の饗宴を示してくれる本は嫌いではありません。それによって知の歴史のものすごさ、学問のパラダイム転換の興味深さを知ることができます。それはやはり生の喜びに繋がります。しかしにもかかわらず、今ここにいることを受入れながら、社会を、人間を、自分の眼で見ていこうという気持にさせる前者のような社会科学の本、そのような社会科学の本を切実な気持で待ち望んでいる自分が一方にあります。M・ウォルツァーの「解釈としての社会批判」は、知の宴(うたげ)の後先(あとさき)に関係なく、自分の限られた生の中で、他の人々との関係を築き、それを見つめていこうとする者に、深い励ましを与えてくれる本であると思います。
 ウォルツァーの本を初めて手にしたのは奇妙な偶然からでした。もうずいぶん前のことになりますが、学生であった私たちが、或る日先生とお酒を飲んでいました。話しの流れの中で先生が「君たちへの私のオブリゲーションだから……」と言われました。その時実は私はオブリゲーションとは日本語でどういう意味なのか知りませんでした。意味はわからないのに、この言葉の響きとその言葉を言った時の先生の様子が強く心に残りました。たぶん私は翌日こっそりと英和辞典を引いて意味を調べたのではないかと思います。その後たまたま神保町の洋書店の政治学のコーナーでウォルツァーの「オブリゲーション」という本を見ました。ウォルツァーについては何も知らなかったと思います。先生の酒席でのあの言葉だけから、なんとなくこの本に手をのばしました。そして値段も私の買える範囲だったのでしょう、購入しました。どうも人生にはこのように本質とまったくずれたところで、事柄は進んでいくところがあるようです。この「義務」を読んだ時、文体がずいぶん抑制されているなと感じたこと、それと「集団(グループ)」という言葉に或る不思議な陰翳があることに印象を受けました。彼の「集団」を日本語の集団にそのまま置きかえるとズレが起ってしまう。が、しかしウォルツァーの「集団」は日本人である私に、別世界の言葉ではなく、ひっかかるところがありました。本当は私は彼の「集団」を払い除(の)けたかったのですが、払い除けられない自分がありました。今から思うとウォルツァーの「集団」に私は二重の意味でひっかかっていたのかもしれません。政治学というのが当時どうもよくわからなかった私は、人々の繋がり、その人々の約束にもとづく「集団」に無意識の中で抵抗感をもっていました。それでいながら他方、ウォルツァーという人がこのような言葉を使って必死に行なう理論化の営みの根っこのところに或る熱いものを感じました。結局この二重のひっかかりがずっとあり、ウォルツァーの本が出ると、内容はどうもよくわからないのだけれど、読まずにはいられなかったのかもしれません。その根っこのところの熱いものは、たとえば『義務』では、論理の裏側に隠れてすぐには見えません(しかし、良心的兵役拒否、市民的不服従、戦争捕虜といった具体的な出来事の中に想像力を使って我が身を置いてみるならば、この論理を支える根っこはかならずや見えるはずです)。それに対して『解釈としての社会批判』はこの根っこを彼が正面からとりあげた作品であると思います。
 ウォルツァーが個人的にどのような政治的経験をしたか私は知りません。しかし彼のすべての著作を読んで、私は彼の論理を支えている根っこは政治的経験であると思います。私自身は政治青年ではありませんでしたが、これまで生きてきたことから次のようには言えます。政治は人を傷つけるが、人々の営み(行為)である政治は、人々の繋がり(横結=連帯、自治)の側面ももっているわけであり、人はそれを想う時、或る根本的な内的促しを感じるのではないでしょうか。ウォルツァーは『聖徒の革命』の仕事で、道を歩み始めました(それはM・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を意識しながら、それの政治的側面を補う作品です)。すなわちカルヴィニズムの政治的行為についての研究が彼の第一歩でした。そして二〇年以上後の『解釈としての社会批判』では、解釈すること、物語ることへと視点は移ってきました。空を舞う驚(わし)ではなく、洞窟を出る哲人ではなく、彼は洞窟を改めて選びました(『解釈としての社会批判』とほぼ同時期に出版された『批判者たちからなる仲間』で彼はそれを明確にします)。研究対象はもはや、カルヴィニズムの急進的(ラディカル)な行為ではありません。がしかし、彼が洞窟を改めて選びとったことは、<彼の>根っこ(radix)をはっきりと見定め始めたことのように思えてなりません。政治学を学び続けることで、自分の根っこを見つけていく一人の人間を私はウォルツァーに見い出します。
 彼の教育制度観(『正義の領分』にその一端が示されています)、また彼の歴史観(『出エジプトと解放の政治学』にそれは示されています)に、私は異議があります。私としては彼の教育制度観と歴史観は近代との距離のとり方に問題があるようにずっと思ってきました。今でもそれは変わりませんが、彼が一人の人間として自分を賭ける形で、『解釈としての社会批判』において、発見でも発明でもなく解釈を選ぶ時(すなわち洞窟を選ぶ時)、私自身は我身の深いところで揺るがされていることを告白するしかありません。それはおそらく洞窟の中にいて、その時、光のこと(輝き)をやはり私は想わずにやっていけないだろうと思うからです。しかし同時に「物語を語るほうがよい。……とりあえず物語を語るほうがよいのだ」(同書第二章)というウォルツァーにしては珍しくパセティックな言い方に、私は勇気づけられ、それに従って歩んで行くと思います。
 彼の作品の中でも最も内容の濃い作品『解釈としての社会批判』が、応用倫理学の問題を文字通り実践を通して深めている川本隆史さんと、ウォルツァーが政治の可能性に賭けていることをずばり見抜いている大川正彦さん(『理想』No.652)によって訳出されました。今の日本で望みうる最良の訳者をウォルツァーは得たと思います。社会科学の愛読者である私には小さな夢があります。一冊の詩集がさりげなく居間に置かれているのと同じように、社会科学の本がテーブルの傍らに、あるいはソファーの上に置かれている……という光景。それは、ふつうの学生や働く人々にとって社会科学の本を読むということはどういうことなのかという最初の問いに繋がります。またそれは、日本において社会科学が本当に深められていくということはどういうことなのかということに繋がります。自分の生を(生の終りも含めて)見つめながら繰り返し繰り返し読む社会科学の本……。ウォルツァーの『解釈としての社会批判』はその芽をもっている本であると、私は信じています。



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